■植松 喜
2018年夏。それまでの解放の経験やそこに至るまでの苦難についてどのような意味があったのだろうと思い巡らしながらも、まだはっきりとは見いだせずにいた朝のことです。ディボーションを通して神様はその意味を明確に示してくださいました。
士師記7:1〜8の中でイスラエルの民がミデヤン人と戦う際に士師のエルバアルすなわちギデオンに主が仰せられたのです。「民はまだ多すぎるから、ミデヤン人をイスラエルの民には渡さない。」それはイスラエルの民が「自分の手で自分を救った」と言って、神様に向かって誇るといけないからというのです。
そこで神様は「恐れおののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。」とイスラエルの民を3万2千人から1万人に減らされました。ただでさえ少ないイスラエルの民にとってはまさに神様への信頼を試みられる時であったに違いありません。
しかし神様は「まだ民は多すぎる。ギデオンのためにイスラエルの民をためそう。」とおっしゃるのです。水のところにおいて、舌で水をなめず、ひざをついて飲まなかったもの、すなわち口に手を当てて水をなめた、たった3百人が残され、他のものは家に帰らされるのです。「手で水をなめた3百人で、わたしはイスラエルの民を救い、ミデヤン人をギデオンの手に渡す。」とおっしゃいました。
神様はあえて、「神様の業以外の何ものでもない」という状況にまで私たちを置き、そこから大いなる救いの御業をなしてくださる方なのです。それは私たちが全能なる神様に全き信頼をもち、私たちの働きでなく、神様の働きが前進するためなのです。そのために私もまた苦難を通らねばならなかったのです。
また、働きが神様のものであると同時に私たちも神様によって聖別され、神のものとされる、きよめられる必要があるとこの箇所を通して教えられます。残された3百人は神様によってためされた、選りすぐりの者達でした。私たちに対しても神様は余計なものをそいでそいで、削って削って、良いものを残し、引き出してくださり整えてくださるのです。きよめられるとは何か自分自身が強くなっていく歩みではなく、どんどん神様なしには何も出来ない自分になっていく全き神依存への歩みなのだと気づかされました。
この苦難を通してまた一歩神の働きにかなう器へと整えていただいたことを神様に感謝します。ハレルヤ!!
(植松 喜)