■小野 源一
2010年の冬に体調を崩してからまるで自分自身をなくしてしまったようでした。私はいったいどこへ行ってしまったのか、今までの私はどのような人間であったか、思い出すことが出来ないでずっと苦しみ続けました。それに伴って私のうちにある小さな恐れ、不安、疑いなどの思いが自ら意識しないうちにどんどん大きくなっていきました。そして、自分ではどうしようもなくなり、身動きが取れない状態にまでなっていったのです。「わずかのパン種が練り粉全体を膨らますのです」とのみことばのようでした。そこから回復するために環境を変えたり、医者に行ったりと様々なことを試みましたが、変化は現れず、私はひたすら過去の自分を捜し続けていました。
いったい私はどこへ行ってしまったのかと。また今の私はどうしてこのようになってしまう程に惨めな人間なのだろうと。苦しみの中にあった救いは、決して神様は私を見捨てず、離れずにいてくださったということ。また多くの方々が祈り支えていて
くださったことです。
2018年の春、私の妻を始め、いつもさりげなく愛のある配慮をしてくださる方々の手を通して一つの祈りの時間が神様から与えられました。いつもならばまず疑ってかかり、批判的な角度から見つつ極力物事をさけていく私のその時の性質からは考えつかないほど抵抗なくその時間をもちたいという思いになりました。
そしてついに来たるべき時が来たのです。それは一瞬で、あっという間に、何がおこったのか自分でもつかみきれないうちに、神様は祈りの時間を通して私を長い間の苦しみから解放してくださったのです。
恐れ、不安、疑いを手放し、イエス・キリストにささげるとき、解放が与えられました。心に平安が与えられたのです。その瞬間の私は神様がどれほど大きく私を変えてくださっていたかを知ることができませんでした。
本当にわずかな実感のみの出来事だったからです。しかし主は確実にそのことを行ってくださっていたのです。数日後私は夢を見ました。それは私が職場で祈りを通して解放されたことを話す夢だったのです。なんだか不思議な夢だと思っていました。そしてまた数日後。職場で「最近変わったようですけど、何かありましたか。」と尋ねてくださる方がありました。そして私は夢で見たようにその方に祈りを通して解放されたことを話したのです。
神様のなさることのなんと素晴らしいことでしょう。自分自身が解放されることにとどまらず、変えられた姿を見た人々に神様の御業が宣べ伝えられていったのです。
「わたしの上に主の御霊がおられる。 主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。 捕らわれ人には赦免を、 盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、 主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカの福音書4:18~19)
あれみ深い神様に感謝するとともに、いつも祈り支えてくださっている皆様に心から感謝し、証の出来ることを嬉しく思います。ハレルヤ!!
(植松 喜)