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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.038   2018.03.18

■清 陽子

 

中学生の頃、母が精神を痛み入退院を繰り返す日々の中、厳格な父からは家の事を言いつけられ、学校から帰宅すると夕飯の支度や母の話し相手をするなど、私は青年期に至るまで辛い時期を過ごしました。兄もいましたが、軽度の知的障害があり、父は私を頼みにしていました。私には自分の居場所がなく、対人恐怖や緊張で震える手の痺れなど、次第に体にも異変をきたすようになりました。学校に行きたくないと言えば、父からは「甘えてるだけだ!」と一喝され、我慢して学校へ行きました。「兄は障害があるけど友達や理解のある先生に囲まれていて、両親にも将来のことを何かと気にかけられている。なのに、なぜ私のことは誰も気に留めてくれないんだろう…。」孤独な思いと自分の存在の不確かさの反動で親を困らせたりするようになりました。
そんな時、習い事で知り合った友人から教会の牧師先生が話を聞いてくれるからと誘いを受けました。牧師先生は私の話に真剣に耳を傾けてくださいました。初めて聞いた聖書の記事は、サマリヤの女性とイエス様の出会いの場面でした。人目を避け、井戸に水を汲みに来た女性に、宣教の旅路のイエス様が会いに行かれ声をかけられた場面です。女性は孤独な心を満たすために、結婚と離婚を繰り返していました。誰の目にとまることなく隠れるように生きてきた女性をイエス様は心にかけて対話をもたれました。この出会いで女性は人々の中に出て行き、大胆にイエス様を伝える人に変えられました。私は自分と似た境遇のこの女性に共感し、自分もイエス様を信じたいと洗礼を受けました。晴れ晴れとした気持ちもありましたが、どうしても見捨てられることへの恐れから、兄姉の執りなしや親切を受け取ることができませんでした。
ある時礼拝後、それまでにないくらい悔い改めの祈りへと導かれ泣きながら「ごめんなさい。」と神様に祈っていました。その時に執りなしてくれた神学生から「人を軽んじてはいけない。」と言われました。何か大切なことを指摘されているんだと感じましたが、どうすればいいのか分からず、向き合うことができませんでした。解放されたい思いだけが募る毎日、ある年配の姉妹から、全額を出すから牧師先生によるカウンセリングセミナーを受けるようにと勧められました。4万円もするのでもちろんお断りしましたが、その姉妹に「受け取るのも愛だと思いますよ。」と言われました。誰かに関心を求めながら受け取れない、神様は牧師先生や兄姉を通して何度も私を気にかけて、語り続けてくださっていたのに、私は神様の愛を拒み続けてしまっていたのだと、初めて気づかされました。神様は私に言ってくださいました。
「たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る(イザヤ書41章10節)」「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない(へブル書13章5節)」 神様の深い愛が自分の中にまっすぐに迫ってくるのを感じ、涙がとまりませんでした。神様は私にいつも関心を持ってくださっていて、大切なことを教えてくださる真実なお方です。心から感謝でいっぱいです。わたしも神様のように決してあきらめず、寄り添い、愛を表し続ける心をいただいてイエス様の救いを伝えていきたいと思います。(清 陽子)

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