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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.025   2017.12.17

■和田 透

 

間もなく新しい年に変わろうとしています。思えば、主にお出会いし、新しい命に生かされるようになってから、既に30年以上が過ぎています。この流れのなかで、主はみ言葉や主日礼拝の説教のみならず、多くの牧師先生、信仰の諸先輩方、愛兄姉を通して、時機(とき)に適った御旨を示し、教え導いて下さったことを覚えています。心から感謝が、湧き出でるのを禁じ得ません。のみならず、神様の愛は私の人生の周りで起こる様々な事象を通しても著されてきました。           
信仰を持ってしばらくしてからのことだったと思います。新年の東京に珍しく大雪が降って、朝の街並みが白く覆われていました。この光景をみて、朝日の輝きを照らす雪の白さに神様はこの雪を白く創られたのだと云う、厳粛な思いに至ったことがありました。他の何色でもない、白と云う。聖さを表す色。本当の白さは、むしろ「輝き」であることを人は知っています。金やプラチナの純度が高まると其々の色が白に近づき、やがて「輝き」そのものへと変わっていきます。わたしは、ヘルモン山でペテロたちが見た主の変貌の姿こそ、これであったのではないかと信じています。
旧約聖書の創世記のノアの箱舟の件(くだり)は、クリスチャンならずといえども、多くの人の知るところです。大雨が止んでノアが、乾いたところを知るために鳩を放つ。帰ってきた鳩はオリーブの若枝をくわえていたと云う。神様は、今後このように人を滅ぼすことは決してすまいと云う約束を、虹を以って示したといいます。虹は七色の分光色。希望の色を表します。人の作り出す「色」を混ぜ合わせると「黒」へと変化していくけれども「黒」は、闇を象徴します。しかし、光は、混合して「輝き」へと変化する。大いに雑駁(ざっぱく)ではありますが、色の三原色と光の三原色の違いには、信仰的な意味が含まれているような気がしてなりません。
クリスマスのシーズン。主のご降誕は、夜のとばりの降りた闇のときでありました。人の数にも入らぬ羊飼いたちは、ベツレヘムの町の外の野原で焚き火して暖をとっていたといいます。どの時代も多くの人のこころは、この様なものかも知れません。いや、私自身がそうでありました。そこに光が照ったのであります。聖書は主の栄光と云い、そこに「輝き」があったのです。 
ルカ2章8~9節の「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。」この記述は、旧約聖書のイザヤ書9章の書き出しに良く符合します。また、イザヤ書9章1~2節の「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」実に750年もの、ときの隔たりを超えて、神様の約束は現実となったのです。
いま、わたしはこの「輝き」は、わたしの闇を照らしたもので30数年前のわたしのこころに、ベツレヘムの野と同じ「輝き」が確かに照らしたのだと、思います。(和田 透)

 

なやみのうちにあるわれを さがしもとむる神あれば  いかでこころをとざすべき 涙の雨の晴れしとき  わが心にぞてりわたる 神の誓いの愛の虹  (ハレスビー みことばの糧)

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