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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.021   2017.11.19

■久保田弥生

 

私は子供の頃から「兄だけが母に愛されている」と感じ、家族に心を開かず距離をおいたまま大人になりました。受洗後、母への満たされない思いと執着に気付き、それを断ち切りたいと神さまに祈るようになったのですが、祈っても心がついていかず、そんな自分を責めるばかり。かたくなな私の心は、何重もの壁で築かれ縛られて、順に解放される必要がありました。
「手放したい」と何度も回復キャンプに参加するようになると、神さまは、まずなにより、イエスさまの十字架の愛を、本当の意味で私が受け取れるように導かれました。何度目かのキャンプで十字架の映像を見たとき、イエスさまに大事にされ強く愛されていることを強く感じ、そして、私が苦しまないようにと、代わりに十字架でこれほどの痛みを受けてくださったのに、私はその十字架の下で自分を責め、自分で自分の心を傷つけ血を流していたことに気づきました。なんてことをしてきたのだろうと、涙を流して悔い改めを祈りました。
その数分後、母への思いが塗り替えられていることに気がつきました。「イエスさまに愛されていた」だけでなく「私は母に愛されていた」と、まったく自然に思えたのです。驚きでした。そしてそう思えて初めて、自分の思うように母が「してくれなかった」部分だけを見て、愛されてないと思い込み、伝える努力もせず、わかってくれないと一人で傷ついて、苦しむ必要のないことを苦しんできたのだとわかりました。育てられたことへの大きな感謝より、小さな不満だけを見ていたこと。また、私が求めていたのは自分に都合のいい理想の母であって、本当の母自身を受け入れず、見ようとしてこなかったのだとも知りました。
神さまに対しても、同じ心でした。天のおとうさんが下さる恵みをほしがり、天のおとうさん自身を求めてはこなかったのです。間違った信仰で、ほんとうに感謝知らずでした。
「母をゆるします」と祈ってきましたが、「母をゆるす」どころか、私のほうが「今までしてきたことをゆるしくてください」と、神さまにも、母にも謝らなければいけなかったのです。命をかけた十字架の愛を受けたことで、聞く耳を持てなかった頑固な心が砕け、自分の傲慢さと大きな間違いが見えるようになりました。
神さまは、十字架の愛で傷ついた心を癒し、かたくなな心を砕かれて、それから方向転換すべきことを教えてくださいました。家族との関係も変わってきています。神さまに話せるように、母にも自分の心を話せたらと祈っています。至らない私は、まだまだ砕かれることだらけです。日々、神さまに愛されることの幸せをかみしめ、すべてに感謝して従っていきます。ハレルヤ!

(久保田弥生)

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