■11:我妻 幸子
私は、浄土真宗の家庭に生まれ、浅草という神社仏閣の多い街で育ちました。
高校生の頃、学校から帰宅してテレビをつけると、イエス様についてのアニメが放送されていました。その時のお話は、イエス様が5000人に給食したというお話でした。歴史の好きな私は、「イエス様が歴史上実在し、こんな奇跡を起こしたのだったら、凄いことだ」と思ったのを覚えています。
高校を卒業して、アメリカへ留学しましたが、その学校にはチャペルが併設されており、時間割にはチャペルの時間も組み込まれていました。
そこで一年過ごした後、西海岸の学校に通うことになり、紹介されたホストファミリーがクリスチャンでした。日曜日になると教会に行くホストマザーに、「私も教会に連れて行ってください」お願いし、教会に行くことになりました。
最初は、英語のヒアリングを強化する目的でしたが、ある日曜礼拝のメッセージで、牧師先生が「ニワトリと卵は、どちらが先に存在したのでしょう?」と問いかけられました。これは、私が長年不思議に思っていたことで、答えを導けずにいた疑問でした。
次の瞬間、牧師先生が「神様がすべてを完全に発達した、すなわち大人の状態でお造りになられたから、鶏の方が先に存在したのですよ。」とお話しされたことに、衝撃を覚えました。自分の中で、とても納得のいく説明でした。「私が長年求めていた答えはこれだ!私が信じるべき神様は、この神様なんだ!」と確信した瞬間でした。礼拝後、ホストファミリーのお母さんに「私もクリスチャンになりたい」と伝えると、教会のスタッフを呼んで、一緒に祈ってくれました。この時、自分の感情とは関係なく、胸が震え、涙があふれて止まらなくなりました。聖霊様が触れてくださったのだと信じています。
このような形で神様を信じたものの、イエス様の愛について、そして魂の救いについては、正直ピンと来ていませんでした。そのうち、「自分は救われるに値しない人間だ」という思いが頭をよぎるようになり、また一方でそれを信じたくないという思いから、より一層、神様の御言葉を求めるようになりました。そんな時、ヨハネ10:27-29とエペソ4:30の御言葉が与えられました。証印を押されているという箇所は、英語では、“Sealed=封印されている”という表現が使われています。これらの御言葉を与えられたとき、「だれもわたしと神様を引き離すことはできない。聖霊によって私の魂は封印され、守られている。私は救われているんだ。」という確信を持つことが出来ました。
(我妻 幸子)