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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.010   2017.09.03

■10:上村 裕子

 

「すべての事は、上手くいっています。祈ればできます。」
何も上手くいっていない状態で私は養育コースを受講する事になりました。見えるところには何一つ良いことがあるようには思えていませんでした。
「神様は何一つ私の願いを聞いてくれない。他の人の祈りは聞いてもらえるというのに、私の祈りは全然聞かれない。神様はすべての人を愛していると言いながら、私だけは除外なんだ。そうなんでしょう、神様!」と何度叫んだことか。「悔しい、悔しい。」といつも思っていました。
神様に疑いを持ちながらの養育第一課、自己紹介じゃないか。あーもう!仕切り直して第二課、このみことば、さらっと見たことはあるけれど、なんだか私の中に入って来るような気がする。神様は私を祝福したいと思われているのですか?書くことによってみことばが入りやすくなっているのかしら。鉛筆は魔法の杖というだけあるね。書くことが嫌いではないことが幸いしてかの第三課、ちょっと待って、イエス様を信じた私は既に勝利の人生を歩んでいるの?私が鈍感だっただけ…
第三課頃からみことばを書きだすという宿題がとても楽しくなってきました。聖書は私に何も悪いことは書いていない、それどころか書いていてなんだか嬉しくなるじゃない。聖書は神様からのラヴレターだというけれど、本当にそうなのね。と、思いながら毎週学びを進めていきました。が、「あなたの賜物を発見してください」のタイトルを見ただけで、少し大げさですが、なにこれ!?え?何するん?言いようもない不安が私を襲ってきました。 しかし、実際は何も恐れるようなことは無く無事終えることが出来ました。
また、「伝道小グループ 幸せな集まり」。これも私にとってハードルの高いものでした。ただ、自分でこの養育コースが終わるまでには、どこかのグループを見学してみようと心に決め、同じセルに二度参加してみました。今度は違うセルを見学してみたいと思っています。落ち着くまでには時間がかかりそうですが、祈って決めたいと思います。

いつも私は、神様の愛を受け取ろうと切に祈り賛美する皆さんを一歩下がったところから見ていましたが、心の中では「あんなふうに積極的に祝福を求めたい。」と思っていました。高慢なくせにおとっちゃま(讃岐弁で臆病者の事)な私は大分損をしていたのだとわかりました。今までの経験から、恐れ・不安は避けて通るという習慣がついていましたが、それは私を神様から離そうとするサタンの策略なのですから、これからも祈って、堂々と勝利を宣言して歩んで行きたいと思います。


(上村 裕子)

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