「言葉の力」
親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。(聖書:箴言16:24)
サッカーのワールドカップでは日本も大健闘を見せました。惜しくも8強入りは果たせませんでしたが、本当によく頑張りました。試合後、選手達が口々に日本からの応援が大きな力になったと言っていましたが、選手達にとって周りの人からの応援や励ましの声は大きな力となったことは間違いありません。
それはサッカー選手だけではありません。私たちも誰かそばにいて励ましてくれたり、声をかけてくれると元気が出てきます。一つの言葉で生きる勇気をもらえたりするのです。また、反対に心ない言葉で傷ついたり、生きる気力をなくしたりもするのです。以前葬式ごっこと称して色紙に、ばい菌とか死ねとか書かれた少年がそのいじめを苦にして自殺したという痛ましい事件がありました。少年の心の痛みを思うと心が本当に痛みます。
私たちが思っている以上に、言葉には力があり、人に影響を与えるのです。言葉は単なる言葉ではなく、その背後に語った人の思いや人格があるのです。ですから言葉で人を生かすことも出来れば、殺すことも出来るのです。
先日お会いした方が、『「あなたは神の作品です」という聖書の言葉に触れたとき、自分はかけがえのない存在なのだという思いが深く入ってきました。人と比べないで自分の人生を生きれば良いんだと勇気が与えられました。』と言われていました。私たち一人一人は生きる価値があり、作品なのです。
あなたは最近、自分が励まされたという経験がありますか?あるいは、あの言葉で自分は立ち直れたという言葉を思いつくことが出来ますか? また、自分の言葉にも力があることを自覚したいものです。あなたの生きた励ましの言葉が周りの人を生かすことを知って下さい。
「救われた喜び」
昨年10月に、九州で行われた講演会で、ある牧師の講演を聞き、なぜか涙が止まりませんでした。訳も分からず涙を流している私をみていた友人が、教会に来てみないかと誘ってくれたのです。そして初めて浅草のホープチャペルを訪れ、 賛美したときに、また訳もなく涙が出てきて止まらないのです。これには本当に驚きました。西田牧師が、「初めて教会に来られた方、立ってごあいさつして
下さい。」と言われた時も、涙が出て止まらず、恥ずかしくて皆さんの方を向けなかったくらいです。
今まで私は、いつも心の中が空虚で、寂しく、いつも生きていることが辛い、早く死にたいと思っていました。それを埋めるものを探しているうちに、学生時代はある新興宗教に、知らないうちに取り込まれそうになり、親を心配させた事もあります。また、インドに瞑想や哲学を求めて旅行した事もありました。私にとって瞑想はとても手助けになり、一時は感謝の念であふれ、生きている喜び、幸せを感じましたが、それは一時で、すぐに薄れてしまいました。またある哲学は素晴らしいのだけれど、その一部に私と合わないものを感じていました。
その事をアメリカ人の友人に話すと、オレゴンの教会に連れて行き、私のために祈らせてくれと言うのです。私から余計なものを洗い流さなくてはならないと言うのです。私は友人に、私が良いと思っていたものを否定され、別のものに無理やり変えさせられようとしていると思い、反発を覚えました。アメリカから帰国し、しばらくは反発していました。
しかし、心は正直なものだと思います。悲しい歌を聴いて涙することはあっても、教会で明るく、楽しいを歌って訳もなく涙が出たことは今まで一度もありません。それは心の底からでた涙だと思うのです。それによって心が清められ、気持ちが落ち着き、幸せを感じられるようになりました。今まで心に空いていた穴が、だんだんと埋まってきたのです。私の中では、これが私の欲していたものだ、本物だと感じました。
考えてみたら、私の周りはクリスチャンばかりで、幼稚園も大学もキリスト教の学校でした。おそらく、私の周りのクリスチャンの友人たちは皆、私のために祈ってくれていたのだと思います、だからこそ教会に来られるようになったのだと思います。
皆が私をあるべきところに導いてくれたのだと、本当に感謝しています。
「動物を看取ること」
「動物は死んだらどうなるの?」って思ったことはありませんか?
最愛のペットとの死別は、非常に切なく、悲しいことです。私も幼い頃から小鳥やウサギ、犬に囲まれて育ち、これらの小さな命を看取ってき、その別れの辛さも体験してきました。私たちは、新しい命を迎えることに対しては喜び
ますが、死というマイナスな出来事からは目を逸らしてしまいがちです。
しかし、私たちよりも寿命の短い生き物を飼うということは、その命を看取ると
いう覚悟が必要なのです。
聖書によると、万物の創造主なる神様は私たち人間をお造りになる前に、昼と夜、空、海と陸、植物、太陽と月星、海の生き物と鳥、動物や昆虫をお造りになったとあります。実は、これらは全て人が生きていくために必要なものであり、その環境を整えてから、神様はご自身の形に似せて人をお造りになられたのです。そして、造られた全てのものを祝福し、地上の全ての動物を支配、すなわち管理するという仕事を私たち人間に与えて下さいました。
神様に代わって、この世に誕生した小さな命を守り、育むことにより、私たちは命の大切さ、また、無償の愛を注ぐことを学びます。それだけでなく、愛おしいペットたちが飼い主に対して注ぐ誠実な愛は、本来、私たちが神様に対して注ぐ愛の形だということを学ぶのです。
天地創造の時より、命あるもの全てが神様に属しています。人間だけでなく、動物たちも。しかし、アダムとエバが禁断の果実を食べたことにより、命あるもの全てに死が訪れるようになりました。人だけでなく動物にも・・・。しかし、心を留めていただきたいことは、動物は罪を犯していないので、創造主である神様と既に正しい関係にあるということです。動物の魂は天国で神様の元に帰ることができるわけです。・・・果たして、私たちも、天国に行くことができるでしょうか?
※リンクは、ペットを通しての様々な交流を行なっています。
詳しくは東京ホープチャペル内 我妻(あづま)(あづま)まで。
富弘美術館にて
今日も一つ悲しいことがあった
今日もまた一つうれしいことがあった
笑ったり あきらめたり
にくんだり愛したり
そしてこれらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数えきれないほど沢山の
平凡なことがあった
群馬県東村。ここには美しい詩画を描くことで知られる星野富弘さんの作品を集めた「富弘美術館」がある。2010年の今年は創立20周年記念となる。この美術館の誕生は、星野さんが若い頃、大怪我をし、入院したことに始まる。お見舞いの手紙に返事を書きたくて、紙の余白に枕元の花を描き始めた。最初の頃、花についている枯れた葉っぱは邪魔に見えた。そして、落ちたり散ったりした花も。でも描くうち、その方がきれいに見えてきた。人生観も変わってきた。何も健康でぴんぴん動いているばかりが価値があるんじゃないとか、年をとるとマイナスばかりが積み重なっていく気持ちでいたけど、そうじゃないとか…。退院後、各地で催された詩画展は好評となり、美術館設立へとつながった。渡良瀬渓谷の絶景の先、優しい詩画は今日も訪れる人たちを静かに待っている―。
私にできることは
小さなこと
でもそれを感謝してできたら
きっと大きなことだ