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第18号 2009年クリスマス号

04

始まりの一歩

 

私たちのしていることが、大洋の一滴の水に過ぎないことを知っています。
でもこのひとしずくがなければ、この大洋に、ひとしずくの水が足りないことになるのです。
(マザーテレサ)

あるジャーナリストがマザーテレサに「あなたのしていることはたかだか数千人の人の助けになるくらいではありませんか。」と辛辣に言ったことに対する彼女の言葉です。
マザーテレサは何かの野心や功名心から救済活動を始めたのではありません。インドのスラム街で、目の前の死にゆく人を見、貧困にあえぐ子供達を何とかしなければと感じた、その重荷から彼女の愛の働きは始まりました。彼女の一滴(ひとしずく)の行為から、この働きは大きなうねりを生み出していったのです。
何でも事の始まりは小さいところから始まります。でも、その小さな始まりがなければ、何事も起らないのです。みんな良いアイデアや考えを持ちます。
しかし行動がなければ、それは絵に描いた餅に過ぎません。
時には一歩踏み出すと混乱が生じます。でも、それを越えてチャレンジするならばそこから、新しいことが生み出されてくるのです。
聖書の中に38年間病気でベテスダという池のそばで過ごしている人の話が出てきます。ベテスタの池には、天使が1年に一度、池をかき回す時があって、その時に最初に池に入った人は癒されるという伝説がありました。彼はその伝説を頼りに38年間、じっと湖面を見つめながらそのチャンスを待っていたのです。
そんな彼にイエスは目を留めて「よくなりたいのか」と聞かれます。思わず彼は「誰も私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行きかけると他の人が先に入ってしまうのです。」と答えます。イエスに「良くなりたいのです」という願いを伝えるかわりに、誰も自分を助けてくれない、と嘆いたのでした。そこには彼の人生が現れていました。良くなりたいという思いはあっても、誰も助けてくれないと、原因を人のせいにしていたのです。そんな彼にイエスは「床を取り上げて家に帰りなさい」と彼の手を取って引き上げたのです。すると何と彼は歩き出したのでした。
あなたも自分の人生を変えたいと願ってはおられませんか。もし願っておられるならば、是非一歩踏み出してください。人生がうまくいかないことを人のせいにするのではなく、自らが行動を始めるとき、必ず何かが起るのです。
クリスマスは、イエスが私たちの所に一歩踏み出して来てくださった記念すべき日です。このクリスマスがある故に私たちの救いが現実のことになったのです。「私の心に来てください」と祈る人に、イエスは近づいてくださるのです。

(東京ホープチャペル 牧師 西田育生)

03

救いのロープ

  スコットランドのエディンバラに滞在していたとき、美しいホリールード公園を見に行ったことがあります。「アーサー王のいす」とも呼ばれる公園頂上の丘にものぼり、そこから見渡せる周辺のすばらしい景観も見たいと思っていました。頂上に向かう途中、サリスバリー岸壁の前を通りかかりました。傾斜面がほとんど垂直に近い岸壁でした。ところが、一人の青年が岸壁をつたって行きながら途中で挟まり、上がることも下がることもできずにいました。
 すでに誰かが助けを呼んだのか、警察が到着して事態を把握し、岸壁の頂上に登って中間程にしがみついている青年にロープを投げました。その時、青年は選択の岐路に立たされました。自分の能力に頼るか、警察が投げてくれたロープに頼るか。彼は賢明にも後者を選択しました。岸壁にしがみついていた
手を放してロープをつかむには、大きな信頼が必要だったでしょう。
警察は青年を落とすことなく、わずか数分で危険から救出しました。
 私たちも岸壁にぶら下がって身動きもできず、恐怖心に凍りつくようなときがあります。がんばって岸壁を登り、ある程度の業績も達成したのに、頂上に登りつくことができない状況に陥り、期待していた支えが崩れてしまえば、果たしてどうすればよいのでしょうか。神が投げてくださるロープをつかむしかありません。そのロープは、「愛」と「恵み」という強い材質で作られており、全宇宙の王であられる神が握っていてくださるロープです。私たちは迷わず、信じてつかまえなければなりません。

リビングライフ  荒野を過ぎる方法/ドナルド・マッカロー

クリスマスストーリー

 

医師ルーミスのところに、弱々しい初産の女性が来た。分娩のとき出てきた子は女の子で、片方の足が、腰から膝まで欠けている子であった。
医師はとっさにこの弱い母親と一家の物心両面の苦しみと、この子の将来を思って、二・三分の間、産道からその子を引き出すのを遅らせて、胎児の息の根が消え入るのを待とうと思った。
そうすれば、誰も医師ルーミスの故意の仕事と知るものもなく、この母とこの子のためになると思ったからである。
ところが、そのとき胎児の健全な片方の小さな足、その足先が医師ルーミスの手を、ぐっと押したのである。そのはずみに、ルーミスは自分の考えた通りにやれなくて、その赤ん坊を、憐れな一本足のまま分娩させてしまった。

  それから十七年の歳月が流れたルーミスの病院では、例年の如くクリスマスの祝会を行った。看護婦たちは手に手にローソクの灯を掲げて「聖しこの夜」を歌った。
 その舞台の端には一人の娘がハープをオルガンに合わせて静かに奏でた。
老医師ルーミスはハープが好きであったが、その夜は涙を流して聞いた。
 その時、彼の傍らに中年の上品な婦人が近づき、そっと囁いた。
 「先生、あの子をご覧になっておられましたね。十七年前先生に取り上げて頂いた、片足で生まれた女の子です。義足をつけていますが、前向きです。水泳も、ダンスも出来ます。あの娘は私の生命です!」 老医師ルーミスは、若いハーピストを抱きしめて言った。
 「今晩が私にとってどんな深い意味をもたらしたか、私以外には誰もわかりません。もう一度「聖しこの夜」を私にだけ聞かせて下さい。私の肩には誰も知らない重荷が、かかっていました。それを取り除けてくれるのは、あなただけです」と。
 こうして、「生命の尊さ」と「神の摂理の導き」を深く実感させる夜は更けていった。

(「愛の祭典」山北宣久編  教文館)

02

三つの愛

 

美しい大夕焼け。どこの夕焼けも美しいのだろうが、旭川の夕焼けはひときわ 美しい。
美しいものを美しいと感じ得ること、それだけで、もう十分な恵みである。
三浦綾子『この病を賜物として』

 

二〇〇九年の十月十二日で、三浦綾子さんが天国に召されて十年になります。生前の三浦さんと親しかった込堂一博氏が、その作品の中から珠玉の言葉を選び出し、この度、いのちのことば社より本を出版されました。この本の中で三浦さんは「三つの愛に生きた人」として証しされています。
一つには、まことの神を愛した人です。虚無的な生活を送っていた頃、恋人である前川正さんを通じてまことの神の愛に出会い、新しい魂の誕生を経験した人でした。
二つ目は、人々を愛した人だということ。夫である光世氏を愛し、親兄弟を愛し、教会の人々、町内の方々、本や新聞の編集者、タクシーの運転手、近所の子どもたち、更に出会うすべての人々を愛した人でした。近くに住む込堂さん家族に対してもさまざまな愛を示されたことも書かれています。
三つ目は、旭川の自然をこよなく愛した人であること。
旭川は、大雪山をはじめ、近郊の美瑛、富良野の景色や多くの川にも恵まれていますが、とりわけ美しい夕焼けを愛した人でした。

辻堂一博「三浦綾子100の遺言」   いのちのことば社
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