白い十字架の話
あるところに一人の男の子が生まれた。重い障害を背負っての誕生であった。クリスチャンの両親は毎日、涙のうちに祈ったが、わずか8ヶ月で天に召された。両親はこの子のために真っ白な十字架の墓碑を建てた。その十字架には筆で「すべて労する者、重荷を負う者、我に来たれ」と書いた。両親は命の短い薄幸である我が子の一生がどんな意味をもっていたのか、神に問わずにはいられなかったであろう。
ある日のこと、その墓のある山裾に住む一人の青年が畑に行くため豚の肥料を籠にどっさり積んで坂道を登ってきた。道の途中、十字架があり、次の言葉が目に飛びこんできた。「すべて労する者重荷を負う者我に来たれ」
青年は重い肥料を背に負って汗を流して登ってきた時だったから、この言葉は実に印象的だった。青年はその後、体育教師となったが、クラブ活動の最中、大怪我をして首から下が麻痺し、手足が不自由となってしまった。
ベッドに横たわり、ただ天井を見つめるだけの絶望の日々。ある日、お見舞いに学生時代の先輩が聖書を持ってきた。その聖書の中にあの青年の時に見た「すべて労する者・・・」という言葉を見つけた。この聖句が彼をキリストへの信仰へと導いた。
彼の名は星野富弘という。彼が口に筆をくわえて描く、その美しい詩画は今や多くの人々の凍てつく心を溶かし
慰めと希望を与え続けている。数十年の歳月の後、幼子の両親は神が我が子の命を用いて、星野氏を救いに至らしめたことを知った―。
「三浦綾子全集二十巻 心のある家」より 主婦の友社 (G・O)
「清貧に生きるとは」
ドイツ文学者、評論家、作家として活躍した中野孝次氏(1925年~2004年)の著書「清貧の思想」が、バブル崩壊時期の1992年(平成4年)に出版されベストセラーになりました。彼はその本の中で物質万能の風潮に対して「低く暮らし、高く思う」という「清貧を尊ぶ思想」の大切さを記しています。今、100年に一度の経済危機と言われているこの時に彼の声に耳を傾ける価値があるように思われます。
興味深いことに彼は単に物質的な豊かさを否定して、心の高貴さや精神生活を強調しているのではなく、人間を越えた「絶対的な存在」を感受できるかどうかが大切であると言っています。
彼は日本の仏教を確立した法然、親鸞などの影響力に触れ「当時の人々は彼らによって、欲望の支配する現世の価値のほかに、もっと人間にとって大きな、魂の救済にかかわる一大世界があることに目を開かれた。・・・神仏と日本では言うが、このようなある絶対的な見えぬ存在を信じ、それに対する垂直の関係を第一としたことが、大変な事だったと私は信じる。現代は仏教がそういう役割を完全に失い、形骸化し、それとともに普通の生活者もこういう目に見えぬ存在を畏れる心を失った。絶対的な存在がなくなれば、法律とか評判とか、世俗の横の関係ばかりになって、内に自ら律するものを持たなくなる。」と述べて、目に見えぬ絶対的な存在を信じることで様々な執着から解き放たれることを説いています。
さて私たちはどうでしょうか。執着の固まりのような存在です。一度握ったらなかなか手放せない。与える心より、自分がどれだけ多く獲得しているかが関心事になっている。そんな状態ではないでしょうか。
直面しているこの不況の中で、今の時代そのものが、私たちに見失ってしまっている絶対的な存在との関係をもう一度問い直すように求めているように思えてなりません。
今こそ、物の豊かさを求めるのではなく、私たちの存在をあらしめ、保っておられる神との関係を築く時ではないでしょうか。
イエスも「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・・神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6:31-33)と言われました。私たちは絶対的な神との垂直の関係の確立をするとき、周りに動かされない、どっしりとした生き方ができるようになるのです。物のこだわりから解放されるとずいぶんと自由になることに気がつくのです。
(東京ホープチャペル牧師 西田育生)
今は亡き愛する友に捧げる詩
職場の仲間が46歳で自らの命を絶ってしまった。雨の日、家族葬のため私達は家の外で彼の死を弔うこととなった。「大好きな人だったのに…」「大切な人だった」誰もが一様に悔し涙を流した。
生きていた時の彼はいつも万能感に満ち溢れていた。誰もが羨むほどに自分で自分の人生を思いどおりにコントロールしているような生き方だった。
彼にとっての「強さ」の価値とは、自力だけを信じ最後まで自分の人生を明け渡さないことにあったのかもしれないと思った。人生の半ば、思いどおりにハンドルがきれなくなった時、彼は失望と落胆で傷つき、一人で逝ってしまった。
神に運転席を明け渡し、「神に降伏すること」が、唯一の本当の強さだと彼が気づいていたのなら… 「生きていてくれるだけでよかったのに・・・」
彼の存在(being)そのものを必要としていた私たちは聖書の(ルカの福音書15章)放蕩息子を抱擁した父親のように、羽根をもがれて、傷つきボロボロになって帰ってきた彼を、走り寄り、愛しく抱きしめ、むかえいれたに違いなかったのに・・・・
主よ、どうかあなたの御手の中で彼を抱きしめ、憐れんでください。
遺されたご家族が一日も早く光の中を歩むことができますように慰めてください。そして、無力な私達仲間が、彼の死から学び、いつも神を仰ぎ見て神に降伏して生きていくことができますように導いてください。(M ・Ⅰ)
母の愛 〈揺りかごを揺らす手は、世界を治める手〉
世界の中で最も普遍的な感情は母親の愛です。人間社会の、高いものから低いものに至るすべての階級の中でも、動物の世界でも、母の愛は創造におけるも最も強い力であり、生命を維持する源であります。
子供を庇護して心にかけていく母の愛があってこそ、創造本来の目的が達成されるのです。これは、時代や国の壁を越えて同じもので、無限で、すべてを包みこむ愛、必要とあらば子孫のために自己犠牲をもいとわない愛です。
世界中に子供が何人いるか考えてみてください。そのひとりひとりが母親の心にあふれる喜びであり、世代をつないでいく存在であり、未来に向けての希望です。
確かに「揺りかごを揺らす手は、世界を治める手です」
「 ローラ・インガルスの生活レシピ 21」より