小林多喜二の優しさ
最近、ケータイやゲームの普及により、若者の読書離れが嘆かれる中、街の書店では今年、様々な話題があった。ドストエフスキーが神の存在を証明するために書いたと言われる「カラマーゾフの兄弟」は改訳されるや若者たちの間で一大ブームとなった。また太宰治の「人間失格」は、分庫の表紙のイラストを漫画「デスノート」風にしたところ、異例の大ヒットとなった。しかし何といっても話題となったのは小林多喜二の名作「蟹工船」ではあるまいか。小説の中で描かれた過酷な労働環境が派遣業界で苦しむ若者や格差を嘆くフリーター達に圧倒的な支持を得たのだ。
作家の三浦綾子さんはエッセイ「風はいずこより」の中で多喜二の弟の三吾さんに会ったときの事を紹介している。三吾さんは実に優しい人であったが、亡くなった兄の多喜二像はさらに優しかった。多喜二の家は貧しかったが、弟に音楽の才能を発見した兄は、銀行員時代の初給料で高価なバイオリンを弟に買ってやった。三吾さんは母と共に餅などを扱う商店を開いていた。餅は毎朝 一臼つかなければならない。多喜二はバイオリンの練習をする弟さんの手をいたわり、毎朝自分が弟の代わりに餅をついた。そして終わると汗を拭い、背広をひっかけて近くの駅にかけつけた。兄と弟は同じ部屋に住んでいたが、つっかえつっかえ練習する弟に兄は一言も 文句を言わず、机に向かい黙々と小説を書いた。やがて弟は名だたる楽団の バイオリニストとして活躍する。多喜二の叔父も姉もクリスチャンであった。 牧師を敬愛していた母セキの葬儀は小樽の教会で執り行われたと言う。 「三浦綾子全集十六」主婦の友社より G・O
「ピースチャイルド(平和の子)」
ある宣教師の話です。この宣教師夫婦は首狩り族へ宣教をいたしました。言葉を理解し関係ができた頃、宣教師はイエスキリストの生涯を伝え始めました。イエスは人々を救うために神から遣わされたお方であること。弟子の一人であるイスカリオテのユダに裏切られ、十字架につけられて死なれたこと。しかし、3日目に復活されたこと。このイエスを信じるなら罪が赦され救われることなどを語りました。
ところが、彼らはイエスに関心を向けるどころか、事もあろうにユダに心惹かれ、英雄としてユダをあがめるようになってしまったのです。彼らの部族では一人の男が英雄として崇められていましたが、その理由は彼が敵対する部族の男を友達を装って3ヶ月間ご馳走し、その後に首をはねて食べたということで村の英雄となっていたのです。ところが、ユダは3ヶ月ではなく3年もイエスを騙し続け裏切ったということで、ユダの方がヒーローとして受け入れられてしまったのでした。
その結果に失望した宣教師は宣教をあきらめて帰ろうとします。しかし、部族の人たちは帰らないようにと嘆願するのでした。それは二つの部族がいつも争って戦うのですが、その場所が宣教師が住んでいる家の前の広場だったのです。戦いの度に傷ついた人の傷を拭き、介抱してくれていたのが看護師だった宣教師の奥さんでした。宣教師たちに帰られては困る部族長たちはお互いが和解することにしました。
彼らは和解の儀式のために広場に互いに向かい合って一列に並びました。そして、お互いの 部族の戦士が生まれて間のない幼児を相手の部族に差し出し合ったのです。互いの部族長は その子供を和解の印として受け取り、その子供を部族ぐるみで育てていく事を約束しました。 子供を和解の印として差し出すことはその子の親にとっては大変な痛みです。でもその痛み を負いながら自らの子供を相手に与える。そしてその子供を相手の部族が大切に育てていく。 この和解の子供のことを「peace child(ピースチャイルド):平和の子」と呼ぶのだそうです。
この儀式の意味を知った宣教師は、このピースチャイルドこそ、神が私たちの罪の赦しと和解の印として与えられたイエスキリストに匹敵するという思いが与えられました。そして彼らに「このピースチャイルドこそイエスキリストである。」と告げたのでした。するとどうでしょう、彼らはイエスの来られた意味をすんなり理解し、ピースチャイルドとしてイエスを受け入れ信じたのでした。また、その村での大罪はその和解の子を殺すことでしたから、ユダは英雄の地位から落ちることとなりました。やがてその村は互いが争うことのない平和な村に変えられていきました。以来、「ピースチャイルド」といえばイエスキリストをさして呼ぶようになったそうです。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。(マタイ5章9節)
(東京ホープチャペル 牧師 西田育生)
■クリスマス物語 ― もう一人の博士 ―■ Ⅴ・ダイク
昔、東方の三博士たちが救い主として生まれた幼な子イエスを拝するため、旅に出ました。アルタバンもイエスにお会いし、財産を売って得た三つの宝石をぜひ献げたいと博士たちの後を追って旅立ちました。 途中、道端で倒れている重傷の外国人に出会い助けました。しかし、旅のお金を工面するための宝石を一つ手離してしまいました。旅を続けるうちベツレヘムの村に到着しました。そこではヘロデの軍隊が村の赤ん坊を殺そうとしていました。一人の母親がアルタバンに助けを求めに来ました。その姿を見るに忍びず、 大切な宝石を兵隊に渡し母親を逃がし助けました。この他にも彼は旅の途中に出会った貧しい者や病人を慰め励まし手を差し伸べました。
数十年の歳月が流れ、アルタバンはエルサレムに来ました。町ではキリストと言われているイエスと言う男がゴルゴダの丘で十字架につけられるそうだと大騒ぎでした。これが最後のチャンスと思った彼は残りの 最後の宝石をキリストを救う身代金として差し出そうと急ぎましたが、途中、父親の借金の肩代わりに奴隷として売られようとしていた少女に出会い、哀れに思い彼女を救うため、身代金として宝石を売ってしまいました。キリストに献げる宝石全てを施してしまった上に処刑は執行され、お会いする望みも消えうせてしまいました。彼は力尽き意気消沈しました。しかし、しばらくするとどこからともなく次のようなキリストの言葉が聞こえてきたのです。
「あなた方はわたしが空腹であった時、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときわたしに飲ませました。これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは…わたしにしたのです。」
G・O