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NO.010  2010.2.28

「あなたの隣人とは?」

 

主のみ名を賛美します。
春一番が吹きもう自然界では春の息吹が至るところで感じられるようになりました。また卒業式も行なわれ始め、新しい船出に向かって備えている人も多いのではないかと思います。私たちもフレッシュな聖霊の風をいただき、心新たに前進してまいりましょう。愛する兄弟姉妹の上に神様の豊かな祝福をお祈りいたします。
今、孤独死(あるいは無縁死)が大きな問題となっています。私が東京に開拓した頃は、自殺者が3万人を超えたと言われ、その問題が大きくクローズアップされました。今はそれに加えて孤独死が年間3万2千人もあると言うのです。誰にも知られずに亡くなり、その遺体の引き取り手がない。それを無縁死と呼ぶのだそうです。
かつて日本は豊かな隣近所の付き合いがありました。互いに助け合うコミュニティーの暖かさが残っていました。ところが今は核家族化が進み、更に少子化も相まって、互いの関係が希薄化しています。深い人間関係を避け、自分の世界を構築し殻の中に閉じこもっている人達が多いのです。隣の人がどのような人か知らないし関係ない。そんな無関心が人の心を覆っているのです。しかし、人は一人で生きていけないように造られているので、言いようのない孤独と心の渇きを覚えている人も沢山いるのです。そのような状況下で、教会としてまたキリスト者として人々にキリストの愛を届ける働きの重要性が益々増していると言わなければなりません。
キリストの愛は関係を通して伝わっていくのです。私たちは周りの人をどれだけ知っているでしょうか。私たちの交わりの枠を広げたいと思います。先ず、周りの人達に関心を払うことから始めることはどうでしょうか。身近な人が色々な必要や助けを求めていることに気がつきます。現代の病んだこの社会にこそ、キリストの愛を持ってかかわる人が必要とされているのです。


「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」 (ルカの福音書10:30-37)

 

Ⅰ隣人とはだれか?

あるときイエスの元に律法の専門家がやってきて「永遠の命を得るためにはどうすればよいか」と尋ねました。イエスは「律法には何と書いてあるか」と尋ね返されます。即座に『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」と彼は答えました。イエスは「それを実行すればよい。」と答えるのですが、彼は「では、私の隣人とは、だれのことですか。」となおその問いに食い下がりました。彼の頭の中にはそれらの律法はすでに守り行なっているという思いがあったのでしょう。イエスが言う隣人とは誰なのか、突っ込んで聞きたかったに違いありません。
イエスはそれに対して一つのエピソードを話されました。旅の途中強盗に遭い倒れている旅人がいました。彼はユダヤ人でした。その旅人のそばを通った三人の人達がいました。最初の二人は祭司とレビ人です。二人ともユダヤ人であり、この旅人と同胞の関係にあり、隣人であるはずの人達でした。更に彼らは神に仕え、律法の専門家同様、人の模範と目される人達でした。しかし、二人とも倒れた人を見ると道の反対側を通って去って行ったのです。ところが、3人目に通ったサマリヤ人(ユダヤ人は関係を持つことをいやがり、見下していた)は前の二人とは違いました。旅人を見ると近寄り、傷を手当てし、宿屋まで運び、お金まで払い、宿屋に泊めて介抱したのです。このサマリア人こそが、この傷ついた旅人の隣人となったのです。
単に同国人というだけでは隣人ではありません。また自分にとって負担をかけないような人が隣人でもありません。隣人とは私たちの周りにいる助けを必要としている人達のことです。同国人の祭司もレビ人も旅人に関わることを避けました。自分の予定もあったでしょう。面倒なことはやりたくなかったのかも知れません。彼らにとっては隣人として関係を持ちたくなかったのです。
自分の出す条件に符合する人が隣人で、楽しい交わりを持てる関係が愛であるなら、それははなはだ偏狭なものと言えるでしょう。私たちの周りには傷つき倒れている人がいるのです。表面は元気そうに見えて、実は心が病み、傷つき、交わりを求めて渇いている人がいるのです。

 

Ⅱ隣人となるためには

隣人を見いだしても、傍観するだけなら隣人となることは出来ません。隣人となることが必要なのです。隣人となるとはその人と関係を持つことです。関わることであり、その人の必要のために労していくことです。そのためには先ず第1に自分の持っている殻を破ることが必要です。旅人を助けたサマリヤ人も恐らく様々な葛藤を覚えたに違いありません。旅人はユダヤ人でした。サマリヤ人とユダヤ人は当時付き合いをしていませんでしたし、混血を重ねているサマリヤ人をユダヤ人は見下していました。そんな二つの民族の壁を乗り越えなければなりませんでした。彼もまた関係ないと言って通り過ぎても誰もとがめなかったでしょう。しかし、彼はその殻を破り近づいたのです。
 第2に隣人となることは犠牲を払うことに他なりません。サマリヤ人は、傷ついた旅人のために、宿屋代と治療費を負担しました。余分に治療費がかかったらそれを支払うことも約束しました。それは彼にとって大きなお金だったことでしょう。それだけではありません。彼は予定していた計画を変えなければなりませんでした。一緒に一晩泊まりました。彼の計画は大幅に変更されなければなりませんでした。でも彼はそれをしたのです。
 第3に隣人となることは自分の計画を優先させるのではなく、傷ついた人を中心に行動することです。旅人は傷を洗い、包帯をしてやり、宿屋まで運んでいきました。確かに隣人となることは私たちにとって大きなチャレンジとなります。しかし、そのことで神の愛が伝わっていくのです。なぜならイエスご自身が私たちのために命を捨てる関わりをしてくださったことによって神の愛がわかったのと同じで、愛の労苦を通して人は変えられていくのです。
 先日、「指輪を捨てろ」(新生宣教団)という本を読みました。著者はハワイのホープチャペルのラルフモアと言う牧師です。彼はカルフォルニアのハーモサビーチに成長著しい教会を建て上げます。様々なメディアにも取り上げられ、全米でも話題をもたらす教会となっていました。彼はそれを後継者に譲り、ハワイの開拓を始めるのですが、そのときの経緯が証しと共に記されており大いに励まされました。
 本のタイトルはJ・R・トールキンの「指輪物語」から来ています。「ロードオブザリング」というタイトルで映画化されたことは周知の通りです。全世界を支配する力を与える指輪をもつフロド(人間に似た森の生き物)は、指輪の持つ魔力に葛藤します。その指輪は持ち主を独裁者に変えてしまうからです。もし彼が指輪を壊すと神の秩序が回復されるが、彼自身は無力にされるのです。指輪を持ち続けるなら、彼は独裁者となり腐敗を招いてしまうのです。フロドは指輪を奪おうとする様々な悪の力と戦い、また自分の内なる欲望と戦いながらその指輪を火山に投げ込むというストーリーです。
 その葛藤はそのままラルフモア牧師が経験したことでもありました。建て上げた教会を手放したくない。そこにある快適な生活を離れたくない。得た名声を捨てたくない。しかし神様は彼をハワイへと導かれたのでした。
彼は自分がしている「指輪を捨てる」ことが求められたのでした。聖霊の助けの中で指輪を捨てた結果、ハワイに新しい神の教会が建て上げられていったのです。
神様は私たちを新しい働き、すなわち「隣人となる」働きのために、私たちが持っている指輪を捨てるように導かれます。快適な生活、秩序ある生活。楽しい交わり。そこでは自分が中心であり、コントロールしている環境です。しかし、神は私たちの手から神がコントロールされる人生へと導きたいと願っておられるのです。自分が握っている者を手放す。そうして自分を無にして神の御声に従うとき、神様は更に素晴らしい恵みと祝福の中に私たちを導いて下さるのです。さて、あなたはどのような指輪をしておられるでしょうか。

 

Ⅲ愛の実践者を求めておられる。

イエスは富める青年に「あなたも行って同じようにしなさい。」 と言われました。語るだけではダメです。神様に祈りましょう。自分がとなり人となる人と出会わせて下さるように。祈り始めればそのような人があなたの目の前に現れます。そのような人は教会の中というよりも教会の外にいるのです。イエスは度々、「出て行って福音を宣べ伝えなさい」「出て行きなさい」「派遣して」と言われています。あなたの勇気ある関わりを持つ一歩が大きな力を生み出すことを覚えて下さい。聖霊はそのとき働かれるのです。
いつも兄弟姉妹のお祈りに感謝をいたします。イエスキリストが十字架に架かられ復活された受難週とイースターが近づいています。愛する兄弟姉妹の上に豊かな復活の命が注がれますようにお祈りしています。
さて、5月の信仰成長バイブルフェロシップの案内を同封いたしました。年に一度の集いですが、今回も軽井沢の恵みシャレーで開催を致します。今回も練馬グレイスチャペルの小笠原孝先生という素晴らしい神の器をお招きしております。深い御言葉の洞察から語られる先生の熱いメッセージはきっとあなたの魂を揺さぶることでしょう。どうか期待してお早めにお申し込み下さい。未だ今まで一度も参加されたことのない兄弟姉妹、是非参加されることをお勧めいたします!
神様の圧倒的な祝福が兄弟姉妹の上にありますように。祈りに答えてくださる主に心より感謝しつつ。

 

キリストのしもべ       西田育生

 

 
 
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