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現代に生きる新約

NO.896 2025.10.12

「神の主権にとどまる」    創世記3章1節-9節     井上圭 伝道師

 

今日の聖書箇所は蛇に入ったサタンがアダムとエバを誘惑する場面です。アダムとエバは誘惑にのってしまい善悪を知る木の実をとって食べてしまいました。二人を通しての死と苦しみの裁きが、彼らだけではなく人類全体にも及びました。神の言葉に不従順にした代償です。
神の主権にとどまるとは神の御言葉にとどまること、神の支配にとどまることであり、それが結果的に祝福につながるのです。エデンの園で神の主権にとどまっていたアダムとエバは祝福の中にありました。神の言葉は「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創2:16-17)と、ただ一つの条件を守れば自由に食べて良い、と、それほど難しい条件ではありません。しかしサタンは神の言葉を歪曲し、神が独裁者である様に印象操作しました。私たちは情報源を吟味する必要があります。エバはどう解釈していたでしょうか。「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」(創3:3) というものです。エバの情報源はアダムから間接的に聞いたので微妙に違っていました。ここにサタンは目をつけました。
その一つに、神の言葉を歪曲し、捉え方を変え結果的に疑いを与えることがサタンには容易にできました。私たちは神から直接御言葉を聞くべきです。御言葉を通して神の御心を直接聞き、神と交わることに勝るものはありません。神に対する信頼、御言葉の確信がさらに強められます。二つめは、エバは神の命令を自分の思いのままに脚色してしまいました。神は「食べてはならない」とだけ命令なさいました。しかしエバは「触れてもいけない」と拡大解釈したので、神は人間の自由を束縛するという解釈に変えてしまいました。「死ぬ」という強い言葉も「死ぬといけない」と弱めてしまいました。私たちも自分の思いのままに都合よく解釈してしまうことがあります。私的な解釈が進むと神の御心から離れていってしまい、神の思いとかけ離れてしまいます。
さて蛇は木の実を食べても「あなたがたは決して死にません。」(創3:4) と神の言葉を真っ向から否定しました。神の言葉に従わなくても問題はない、さらに、食べると目が開かれて神の様に善悪を知る者となると誘惑の言葉を言いました。神の主権にとどまるよりもそこから離れて生きる生き方がもっと自由で幸福だと思うこと、それはサタンの思う壺でした。アダムとエバがエデンの園で神の主権にとどまって生きればと不幸や不自由なことはありません。しかし彼らはサタンの言葉に従って、善悪の木の実を食べてしまったのです。
二人は神の主権にとどまることを拒みました。その結果、恐れが訪れ羞恥心が入ってきました。「…自分たちが裸であることを知った。…神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。『あなたはどこにいるのか。』」(創3:7-9) 神の主権にあったときは恐れや羞恥心はなく、神と親しく交わって歓喜していましたが、主権から離れて行くと恐れと羞恥心を持ち歓喜は失われ、自分が何処にいるのか分からなくなりました。イエスの言葉に「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハ8:31-32)とあります。決して私たちを拘束するものではありません。善悪の木の実を食べてはいけないこと以外は自由に食べられたのです。罪の本質は神の主権を認めず、神の主権にとどまらないことです。エデンの園でアダムとエバが享受したように歓喜と祝福の内に歩むことができます。
「主よ。偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて。主よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です。」(歴29:11)ダビデが全会衆の前で神を褒め称えたものです。私たちはダビデをお手本としながら神の主権に歩みましょう。神の主権を認め、神の言葉に従って生き、大いに歓喜と祝福を体験しましょう。

 

≪分かち合いのために≫

  1. 神の主権を認め、神の主権にとどまっておられますか。
  2. アダムとエバの姿から何を教えられますか。

 今日の暗唱聖句

 

「主よ。偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものも すべて。主よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあが められるべき方です。」 (歴代誌第一 29:11)

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