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現代に生きる新約

NO.894 2025.09.28

「自己否定」    マルコの福音書 8章31節-38節     井上圭 伝道師

 

今日のテーマ「自己否定」は自分を責める事ではなく自分の思いを捨てて神の御心が叶う様に願うことです。
「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。…するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」(マルコ8:31-32) これは「あなたはキリストです」(マルコ8:29)というペテロの信仰告白の後に話された内容で、イエスがこの世に来られた使命です。それはイエスに対する神の御心でした。イエスの十字架の死と復活はイエスを信じる全ての人にとって福音なのですが、この時の弟子たちには理解出来ませんでした。だからイエスの言葉に困惑して、ペテロはイエスをいさめたのです。当時の弟子たちにはイエスを通してイスラエル国家を再建したいという願望があったからです。「そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。『主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。』」(使1:6ペテロや弟子たちは、イエスによって再興されたイスラエル国家の中心的役割を担いたいと思っていたのです。そんなペテロにとって イエスの十字架の受難と死は受け入れがたいことでした。
神の御心は、イエスを信じる人の心の内に神の国が立ち上げられ、神の御心がなされる事であり、ペテロの思いとは違っていました。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。―主のことば―」(イザヤ55:8)イザヤ書が書かれた時代も同様でした。しかし私たち信仰者は神の願いがかなうことよりも自分の願いが成し遂げられることを願っていないか吟味する事が必要です。「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」(箴19:21)「人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。しかし主は人の心を評価される。」(箴21:2)自分の思いと神の思いは同じだと思い込んでしまうことがあります。しかし、神の計画だけが実現されます。ペテロやほかの弟子たちの願いの背後には、イエスによって再建されたイスラエル国家で重要な役割を担いたいという強い願いがありました。確かにこの世の反映、成功には魅力を感じモチベーションになる事もありますが、神の思いか自分の思いかを吟味する事が必要です。
イエスをいさめたペテロに「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マルコ8:33)と言われました。それはペテロの願望に働きかけていたサタンに対して「下がれ」と命じられたのです。サタンはイエスをも誘惑しましたが(マタイ4:8-10)この時も、イエスは「下がれ、サタン」とサタンを退けられました。サタンは私たちを同じように誘惑してきます。そんな時「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」(マタイ26:41)と聖書は教えます。サタンは私たちに「自分の王国を立ち上げたい」という思いを起こさせますが、バベルの塔が完成されなかったように神の計画に反して自分の計画は成り立たないのです。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マルコ8:34)とは、自分の人生の計画を脇に置いてイエスに従ういのちの道です。私たちはこのみ言葉をどう受け取るでしょうか。私たちには選択の自由を神から与えられています。この自由をどう生かすか吟味するのが信仰者の生き方です。重要なのはわたしの思いではなく神の思いです。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く…いのちに至る門はなんと狭く、その道はなんと細いことでしょう。…」(マタイ7:13-14)自分のことよりも神のことを思い、自分より人のことを優先して歩む道は狭く感じられます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」(黙3:1b)今の私たちのことを指摘しています。しかし自分を捨てイエスとともに生きるなら、いのちを得てさらに多くを得る事ができます。
神の思いを第一にするには神のみことばを通して、これが神のみ心かどうか祈り求めることが必要です。自己否定の生き方を実践することで 神のいのちの豊かさを体験できる人生に変えられると信じます。

 

≪分かち合いのために≫

  1. 「下がれサタン」とイエス様が言われたのはどのような意味だと思いますか? 
  2. 神のことを思わないで、人のことを思っているというのはどういう意味だと思いますか?

 今日の暗唱聖句

 

「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って 来なさい。」                              (マルコの福音書8章34節b)

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