「祈りは聞かれる」 マルコの福音書 11章22-25節 井上圭 伝道師
世も不安なことが満ち溢れていて、社会がどんどん悪くなっていると感じます。背後には世の支配者が働いています。教会の立場で世に対してどういうアプローチができるでしょうか。
今日の聖書個所の前段では、いちじくの木が呪われる場面がでてきます。いちじくの木とは偽善で不信仰な姿を例えています。また、イエスは神殿を商売の巣にしていたことに憤りをお感じになり、宮清めをしました。その時に「私の家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(マルコ11:17)とあり、それに続いてイエスは祈る時の心構えについて4つの事柄を挙げて教えてくれています。それは①神を信じること ②信仰で宣言すること ③疑いを取り除くこと ④他人を赦すこと です。順次見てゆきましょう。
第一に神を信じることですが、ごく当たり前のことでしょう。主の祈りの冒頭で、「天にいます私たちの父よ」(マタイ6:9)と呼びかけますが、これは祈りの対象が天の父なる神であり、このお方に向けられた祈りであることを意味します。この時に重要なのは、私たちはどのような神観を持っているかということです。もし神は恐ろしい神であり裁き主であると信じるなら「どうか罰しないでください」とおそるおそる祈るでしょう。その逆に天の父は子どもたちの必要をよく知っておられ、良いものを与えたいと考えていると知っているなら、心も平安で豊かで将来が楽しみになることでしょう。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1) 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)とあります。そのような信仰は、神の言葉を繰り返し聞き続け、御言葉を通して神と過ごす時間から生まれます。そして「あなたは祈りを聞かれるお方です」という確信が与えられていくでしょう。
第二に、信仰で宣言するとは「この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』…」(マルコ11:23)と宣言することです。ユダヤ人にとって山とは「克服できない困難」を表わす比喩です。私たちも病気や失業、トラブルや壊れた人間関係の前に立つ時こそ、信仰で宣言していきましょう。到底不可能に思える状況に立ったとしても、信仰の言葉を宣言するのです。神の言葉には力があります。一例をあげれば「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」(詩篇23:4)と祈りの中で宣言してゆきましょう。
第三に疑いを取り除くことです。実はこれが一番の祈りの妨げとなっているのではないでしょうか。私たちが祈る時「私の祈りは聞かれないのではないか」と思ったことがあるでしょう。一生懸命に祈っても答えられないと却って感情的になり、怒りや不信仰が襲ってきます。「いのり」が「いかり」になると揶揄される所以です。祈りというのは答えられるまで祈り続けるしかないのに私たちには忍耐力が欠けているように思えます。ダニエルは忍耐強く祈りました。「そのころ、私ダニエルは、三週間の喪に服していた。 満三週間、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず…」(ダニエル10:2-3)と唯々とりなしの祈りをしていました。み使いは言います。「…あなたが心を定めて、悟りを得ようとし、自分の神の前で自らを戒めようとしたその最初の日から、あなたのことばは聞かれている。…」(ダニエル10:12)なんとダニエルの祈りは祈り始めた最初の日からすでに聞かれていたのです。そして20日目では変わらなかったものが21日目で叶えられたのです。祈りは神のみ前に既に届けられているのです。
第四は他人を赦すことです。人のことを赦せない心、恨みや憎しみが祈りを阻んでいます。主の祈りでも、もし私たちが赦さないなら天の父もあなたがたの過ちを赦してくださらない、とあります。ですから祈る前、私たちの中にある赦さない心を悔い改め、赦しを宣言しましょう。疑いを取り除き、忍耐して祈り続けていきましょう。
まず赦しを宣言し、霊的な戦いが存在することを覚え、祈りがその戦いの勝利の鍵となっていくでしょう。
≪分かち合いのために≫
- 祈りに対する疑いや恐れがありますか?
- 祈りの戦いを日々戦っておられますか?
今日の暗唱聖句
「まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で 疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」 (マルコの福音書11章23節)