「絶えず成長しよう」
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:12-14)
今、卒業式がたけなわです。先日も電車の中で羽織はかまを着た卒業式帰りの若者達に遭遇しました。普段の姿と違って、卒業式の姿は何か凛としていてさわやかな明るさを感じさせてくれます。私の三人の子供たちもそれぞれ3歳づつ年がはなれているため、今年は小学校、中学校、高校とそれぞれ卒業式が目白押しです。普段は学校の行事になかなか参加できませんから、卒業式ぐらいは何とか出たいと思っていますが、来て欲しいリクエストはどうも母親のほうのようです。それはともかく成長していく姿は家族にとっても大変うれしいことです。
これから学校での学びは終えても社会での学びが待っています。むしろ社会に出てからのほうが人生の学びをする事のほうが多いともいえます。その意味では生涯が成長の為の歩みです。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ人への手紙 3章12節~14節)
このみことばは私が人生の土台にしているみことばのひとつです。伝道者パウロの人生の心構えが明確にされています。パウロは誰よりも多くの働きをした人でした。しかし、彼はそれを他人との比較で評価しようとしませんでした。もし、そうしていたなら、これで十分だ。これ以上の事をする事はないと現状に甘んじていたかもしれません。しかし、彼は神が与えられた使命を絶えず見ていました。ですから、「得たのでもなく」「完全にされているのでもありません」「この一時に励んでいます。」と語っています。
私たちもキリストに向かう時、過去の栄光や過去の実績を土台にしないようにいたしましょう。それを土台にすると私たちはすぐ天狗になったり、自己満足に陥ったりします。たえず、まだまだと自己満足せず、成長を目指したいものです。神が求められるのは「ひたむきさ」です。ひたむきに、誠実に神様の働きのために歩んでまいりましょう。神様は私たちの働きに報いてくださいます。神があなたや私たちに備えておられる栄冠があるのです。それは目標を目指して一心に走っていく人に備えられているのです。
現実に流され、目の前の問題に心奪われていませんか。もう一度神が一人一人に与えておられる目標や使命を自覚いたしましょう。キリストの与えておられる目標を一心に目指して走りつづけようではありませんか。
(プレイバック週報2004年3月14日「牧師館より」 西田育生師)
