「全てを主のために」
「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬ にしても、私たちは主のものです。」 (ローマ人への手紙14章7節―8節)
各地のプロ野球のキャンプ便りがニュースで聞かれるようになりました。大リーグで活躍する日本人選手も渡米してキャンプインに備えているようです。これからの長い公式戦に備えて各チームともキャンプを張っています。しかし、そのキャンプに入るためにどのように自主トレーニングをしてきたかが大切だといわれます。
公式戦が終わったらそれで終りではなく,来期に向けてのトレーニングがすでに始まっているのです。プレーヤーとして活躍する為に、一人一人が自己管理しながら自分を整えていく事が求められているのです。食事の管理から,規則正しい生活、筋力トレーニングなど。もしそれを怠ってしまうと体調を崩したり怪我に泣いたりしてしまうことにもなりかねません。その意味では毎日がトレーニングです。生活全部が野球一筋に向いているといえるのではないでしょうか。
私たちキリスト者も同じです。教会に来た時だけが信仰生活ではありません。毎日が信仰の歩みであり,その中でキリストの栄光を顕すように生きていくことがキリストにあって期待されているといえるのです。
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 (ローマ人への手紙14章7節~8節)
パウロは「生きるのも主のため、死ぬのも主のため」と語っています。すなわち生活に関わる全ての事が主のためであり、主のためにあるというのです。同様に「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(第一コリント10:31)とも語っています。私たちの生活全部がキリストの栄光の為にあるのです。
ところが意外と私たちは信仰とこの世の生活を使い分けていないでしょうか。教会に関わっている時の自分と、この世の生活をしている自分とを二分化してしまう。そうするといつまでも信仰が根付きませんし、上っ面の信仰に終始してしまい、神の大きな恵みの世界に入る事が出来ません。いつも肉の欲が出てきて、それが自分を絶えず支配するようになってしまいます。
妥協のない信仰。確信に満ちた生きた信仰は、毎日の忠実な信仰生活から培われていくのです。戦いのない信仰は存在しません。しっかりとした筋肉をつけ公式戦を戦い抜くためのトレーニングがハードで厳しいのと同様に、らくで楽しい信仰生活ばかりは存在しません。時には嵐を戦い抜いて勝ち取る信仰が必要なのです。
もちろんわたしたちは一人ではありません。イエスキリストが共におられ私たちを助けてくださいます。また聖霊の油そそぎがあります。神はあらゆる応援を惜しまず私たちを助けてくださるのです。このお方に私たちもしっかりと向き合い、生活の隅々に神のみお業があらわされるように神に祈り、みこころを問いながら前進するものとなりましょう。 (プレイバック週報2004年2月15日「牧師館より」 西田育生師)
