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NO.778 2023.07.16

「依存先を持つ」

 

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。(詩篇46:1) すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11:28)

 

NPO法人「テラ・ルネッサンス」の創設者で、鬼丸昌也さんという方がおられます。彼は、世界6カ国で地雷除去活動をし、また、紛争地域で、子ども兵士となり、人間殺害の兵器にされてきた子供たちを、紛争後に元の子供たちに還るための自立支援活動などを行っておられます。彼の良く言う言葉は「微力だけど、無力ではない」です。
彼が兵士にされてきた子供たちの心を元に戻すためにしていることは「多くの依存先を持てるようにする」ことなのだそうです。小さな赤ちゃんがハイハイするところからつかまり立ちをして歩けるようになるまでには、筋力もないし頭は重いし、何度も座ったり、転んだりします。でも何度も立ち上がるチャレンジができるのは、母さんという絶対的な依存先があるからです。しかし、人は本当に安心できる依存先を持っていると何度でもチャレンジできるのです。家族を失い、依存する人がいない元少年兵が安心して依存できる人を見つけ、場所を見つけるように鬼丸氏は活動をしておられるのです。
私たちはよく自立することを求めますし、ひとりで何でもできるようになることを要求しがちです。そして、しばしば人に依存してはいけない。そう考えがちです。しかし、本当の意味で、しっかりと自立できるようになるためには、全体的な依存先を持つことが大切なのです。
人は一人で生きて生きるほど強くはありません。振り返ってみれば、ひとりで頑張ってきたと言いますが、実は多くの友達や励ます人たちがいたので今があるのではないでしょうか。家族の支援があって今があるのです。実際私たちは多くの人たちに依存する中で、チャレンジする力を得てきたのです。そしてそれでいいのです。 
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」と聖書は語ります。神様こそが私たちの絶対的依存先です。神様のもとに避難していいのです。神様に助けを求めてよいのです。
イエス様も「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われて、私たちを招いておられます。一人で重荷を負わなければならないと頑張りすぎてはいませんか。心と体の休息場所が必要です。イエスさまとの交わりの中で、生きる力をいただいてまた立ち上がればよいのです。私たち一人で重荷を負わなくてもよいのです。イエス様に一緒に重荷を負っていただきましょう。
また教会はキリストの体であり家族です。家族ですから互いの重荷を分かち合い、負い合うのが家族です。祈りの応援やサポートを受けようではありませんか。自分の弱さを伝えてよいのです。祈られ励まされて立ち上がることができたら、今度は周りの人の応援をして差し上げてください。神により頼み、依存していくことで、私たちは心の安心を得ることができ、心の中心軸が定まり、ぶれない生き方をすることができるようになるのです。神に絶対依存して生きる。それが信仰なのです。

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