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NO.724  2022.07.03

「マイナスを断ち切る」

 

するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 (マルコ福音書9:23)

 

昔、時代劇の小説で眠狂四郎という作品がありました。柴田錬三郎氏が書いた剣豪シリーズですが、高校生の頃、文庫本をよく読んだ記憶があります。眠狂四郎が得意とする剣術は、愛刀「無想正宗」を帯びてくり出す「円月殺法」という業でした。狂四郎が剣客に向かい、ゆっくりと剣先で丸い月を描くように弧を描くのです。その術に待ちきれず相手方が切りつけると、サッと一刀両断にしてしまうのです。もちろんいつも大体同じパターンなのですが、それでも、その場面を想像するだけで何か、気持ちがすっとしたものです。
私たちも、時には多くの問題にぐるっと囲まれて、前にも後ろにも行けない。立ち止まったり、しゃがみこんだりして頭を抱えてしまう状態に陥ってしまうことがあるかもしれません。そんな状況になると、私たちの口から出てくる言葉はつい否定的な言葉となりがちです。うまくいかない。どうしてだろうか。何で相手はこんな態度をするのだろうか。神様がおられても、この問題は無理かもしれない。そんな思いが私たちの心に広がり、いつしか否定的でマイナスの意識が支配してしまうようになるのです。
聖書にてんかん持ちの息子を持つ父親の話が出て来ます。生まれつきのてんかん持ちの息子を弟子たちのところに連れてきて、祈ってもらったのですが、癒されなかったのです。イエスの弟子でも、無理なのか。そんな否定的な思いが父親の意識を支配していたのでしょう。イエスが山から下りてこられるとイエス様に助けを求めました。
今度はイエスに「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と願うのでした。この時父親の心を支配していた思いはどのような思いだったでしょうか。イエスにもできないかもしれない。でも、もし可能ならやってみてください。そんなあきらめともつかない否定的な思いがあったのかもしれません。
あるいは、神様のお心にかなっていれば、癒されるのですが、自分たちは神の心にかなっていないかもしれない。」自分たちのことを卑下して言ったのかもしれません。どちらにしても、否定的な意識に違いはありません。
それに対してイエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 と迫られます。イエス様は逆にはっきりと問い返すことで、「できるものなら」とう否定的な言葉を断ち切られ、「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と明言されたのです。
どうでしょう。知らず知らずのうちに私たちも信仰を否定するような言葉を語っていることはないでしょうか。無意識で語っている言葉の中に私たちの信仰の姿が見えてくるのです。ですから、イエスのみ言葉によって私たちの心の中の否定的な意識を断ち切る必要があるのです。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル 4:12)とあります。神様のみ言葉を私たちの心に向けましょう。人に向けるのではありません。自分がどうか。神の言葉があなたの心に鋭く迫り、悔い改め立ち、信仰に立ち返るのです。イエスに迫られた父親は「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)と叫んで、主の前にひれ伏したのです。私たちもマイナスの意識を断ち切っていただきましょう。

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