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NO.676  2021.08.01

「たとえ理解できなくても」

 

すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」(ルカの福音書5:5)

 

昔、「カラテキッド」という映画がありました。学校でいじめられっ子の少年が、沖縄出身の宮城という老人から空手を習い、空手の大会で自分をいじめる少年に打ち勝つというストーリーです。少年は老人から空手を習う許可をもらったのですが、練習はというと掃除やペンキ塗りと言った雑用ばかりさせられるのでした。彼は不満を抱いて「自分はペンキ塗りをするために来たのではなく、空手を習いに来たのに」と文句を言うのです。老人は少年の不満を聞き流し、いやならやめるように言うのでした。少年はしぶしぶペンキ塗りの仕事をするのでした。やがて、時が来て空手の型を習うようになるのですが、その時初めてなぜ自分がペンキ塗りをさせられたのかがわかるのでした。ペンキを塗る手の動かし方や体の動きが空手の型の基本につながっていることに気づかされるのでした。

聖書の中に次のような記事が出てきます。ある時、イエスはペテロに「深みに漕ぎ出して網を下ろしなさい」と言われたのです。ペテロたちは前の晩一晩中漁をして魚が一匹も取れなかったのです。それなのに、漁師でもない素人のイエスが漁をしろという。こんな時は魚は捕れないの決まっています。しかも、一晩中漁をしたのですから、疲れ果ててしまっています。しかし、イエスの言葉に動かされて、なぜかペテロは「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と言って、イエスの言われるように深みに漕ぎ出し、網を下ろしたのです。するとどうでしょう。網が破れるほどの魚が入ってきたというのです。イエスの言われるとおりに行動するとき、神様の御業があらわされたのです。
信仰の道はしばしば、私たちの経験や考え方とは違う場合があることを覚えたいと思います。なぜこのようなことをしなければならないのか。その時には理解できないことがあるのです。私たちは日ごろから、理解したり、納得したりして行動する生活に慣れています。そうすると、理解できないと従えない。自分の考えとは違うから従えない。そう思ってしまいます。
しかし、信仰の道はしばしば、理解できなくても、自分にとって益にならなくても、神様が言われるのだからと、従っていかなければならないときがあるのです。自分の価値観と聖書の価値観が違う場合もあります。自分の経験や成功体験が、時には神様に従うことの妨げになることがあるのです。
自分の思いではなく、聖書の言葉に従っていく。その時に聖書の価値観が私たちの生活に根付いてくるようになるのです。いま理解できなくても、後でわかるようにしてくださいます。
ペテロのようにお言葉ですから。そう言ってイエスに従っていこうではありませんか。必ず大きな祝福がそのあとに備えられているのです。

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