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NO.618  2020.06.21

「何を見ているか」

 

そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」 (マルコ10:51)

 

コロナウィルスによる移動制限が全面解除となりました。県外への移動も可能となり、人の動きが活発化することになります。長い自粛生活から解放された感がありますので、密になる可能性もありますから注意が必要です。十分な対策を取りながらの全面解除ということになります。
それにしても、今回は私たちはウィルスとの戦いだけでなく、目に見えない様々な心の戦いを覚えたのではないでしょうか。感染リスクや活動自粛、仕事もできず自宅待機、人と人との距離も取らなければならず、経済的不安など、圧迫と不自由さを覚えたのは事実です。いつしか私たちの思考が縮み志向になってしまった感があります。
しかし、どんな困難や苦境の中にあっても私たちは、絶えずみ言葉によって支えられ、信仰的視点で物事を見る習慣を養いたいと思います。神様の視点で見れば、問題は問題ではなく、それは新しいことが起こるためのステップであり、次の展開の起点となるのです。
何を見て生きるか。それが大切なポイントです。問題を見るか、それともその問題の背後におられる神を見るか。問題の山を見上げて途方に暮れるか。それとも問題の向こうに展開している神様が備えられた素晴らしい風景を見るか。同じ窓から見ているのですが、見方によって全く違うものが見えてくるのです。
バルテマイという名の盲人がイエスに出会った記事が聖書に出てきます。イエスが来られると聞くとイエスがおられる方向に向かって叫び始めるのです。人々は彼を黙らせようとしますが、彼はますます叫び声をあげ続けるのでした。やがて叫びを聞かれたイエスはバルテマイを呼び寄せられます。
「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
何というストレートな質問であり、またストレートな応答でしょうか。バルテマイはおそらく、まだ見えてはいませんでしたが、イエスによって見える世界があることを信じ、すでに目が開かれる前から、その光景を描いていたに違いありません。
目の見えない方はすごいイメージ力があって、私たちよりはるかに勝って、見えないものを見たかのごとく、感じていない風を感じ、触れたことのないものを触れたかのようにイメージができるそうです。逆に見えている私たちの方が、目の前の状況に振り回され、右往左往してしまってはいないでしょうか。
絶えず何を見ているかをチェックしましょう。神様が見させてくださる信仰の世界をイメージいたしましょう。神様がくださる祝福の世界を前もって描き、信じ、期待していこうではありませんか。あなたが見るもの、描くものが変えられていきますように。今、あなたは何を見ていますか。

 

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