閉じる

NO.609  2020.04.19

「心を燃やされよう」

 

そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカの福音書24:32)

 

イエスがよみがえられた日の夕方、クレオパというイエスの弟子がもう一人の弟子とエマオという村に向かっていました。墓から戻った女たちの報告を聞き、二人はイエス復活の真偽を論じ合っていたのです。
その時、復活されたイエスが彼らに近づかれ一緒に歩き始められます。しかし、彼らの目はさえぎられていて、イエスだとはわかりませんでした。 イエスは彼らが真剣に論じあっているので、何の話かと問われます。二人の弟子はそれでも目の前の人物がイエスだとは気づかず、何も知らない無知な旅人にこの大変な出来事を知らせなければと、女たちの報告を交えながら十字架の出来事を知らせるのでした。
ひと通り弟子たちの話を聞いたイエスは、ご自身に書いてある事柄を、聖書全体から丁寧に解き明かしていかれるのでした。そして次第に弟子たちの心の中に変化が起こってくるのでした。彼らはイエスを引き留め、一緒に夕食の席に着くように促します。イエスが感謝の祈りを捧げられると、弟子たちの目が開かれ、イエスだとわかったというのです。
何とも鈍い弟子たちではないでしょうか。復活されたイエスを間違うはずはないと思うのですが、目がふさがれていてイエスだとわからなかったのです。しかし、この弟子たちを私たちは批判することはできません。実は私たちも目がふさがれて、復活されたイエスが目の前におられるのにもかかわらず、暗い心で、現実の困難をああでもない、こうでもないと議論していることはないでしょうか。
今、コロナウィルス感染拡大で、多くの人たちが閉塞感と、不安、恐れを抱いています。そしてそれは私たちの意識を気づかないうちに、否定的で暗い思いに向けさせてしまっているのです。重苦しい感覚が知らず知らずのうちに自分を覆っていないでしょうか。そのような状況が続くと、イエスが近づかれていもなかなかわからないのです。
後に目の前のお方がイエスだとわかった時、弟子たちは「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」ということに思い当たります。
心が燃えることが大切です。どうでしょう。私たちの心は燃えているでしょうか。心に希望はありますか。喜びや賛美はどうでしょう。積極的な生きる意欲はどうでしょう。恐れ、不安、失望、落胆、不平、不満、怒り、暗闇、辛さ、そのようなものは私たちの燃えている信仰の火を消すことになってしまいます。
どうすれば心を燃やせるのでしょう。それはイエスとの継続的な交わりがカギとなります。受け身的信仰から行動する信仰にギアを入れてみませんか。色々チャレンジをしてみませんか。礼拝の中で、イエス様を意識しましょう。信仰の友との交わりを積極的に持ちましょう。祈りの中で、信仰の火を燃やしましょう。み言葉の種を心に蒔きましょう。
イエスのみ言葉の解き明かしの中で弟子たちの心がだんだんと燃えていったように、私たちもイエスとの交わりを継続していきましょう。心が燃えていないことを認めて、イエス様から信仰の火をいただこうではありませんか。また特に、聖霊様を慕い求めましょう。聖霊に満たされることを求めましょう。飢え渇いている私たちには聖霊の火が必要不可欠なのです。

閉じる