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NO.605  2020.03.22

「適応力」

 

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。…弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(Ⅰコリント9:20-22)

 

コロナウィルスが世界に拡大しています。各国が入国を制限をし、ダイヤモンドプリンス号の感染拡大の影響もあり、日本からの入国者も88以上の国が入国拒否をしている状況です。オリンピックはどうなるだろうかということも議論され始めました。
政府は次々と支援策や対応策を講じて何とかこの苦境に対処しようとしています。各自治体も対応策を講じ始め、大阪府などは一定の対策を講じれば、イベントや集会を許可するという方向に向かいつつあります。コロナウィルスの特徴も次第に解明されはじめており、ただ恐れているだけではなく、何とか適応しようとしています。
あるクリスチャンのフェイスブックに、トイレットペーパーを買いに行った時の感想が書かれていました。買いに行ったのですが、すべて売り切れで全く残っていなかったそうです。まだ少し在庫はあるのでそれほど慌てませんでしたが、ふと考えたそうです。もし、トイレットペーパーがなければ、ないでいいではないか。水で洗ったっていい。(確かにインドに行けば、トイレはみな水で洗って流します。)トイレットペーパーがなくなっても生きていける。そう思ったら気が楽になったそうです。もちろんそのうち品不足も解消されるでしょうが、確かに私もそうだなと思わされました。実際、私が子供のころはトイレには柔らかいペーパーではなく新聞紙が置かれていたのです(汚い話でごめんなさい)。マスクも同様です。市販のマスクがなければ、キッチンペーパーで作ればいいし、ハンカチでも作れます。そんな動画も出ています。ないならないなりに工夫すればいいのです。
私たちは、いつの間にか便利さに慣れてしまって、適応力がなくなってはいないでしょうか。あれがなければ生活できない。これがなければ生きていけない。そう思うと不自由です。しかし、なければなしでそれなりに大丈夫。そう思うだけで不自由さから解放されます。
今この時こそ様々な適応力が試されているのではないかと思います。部屋で閉じこもっている子供たちは、今こそ、アウトドアで体を動かせばいいし、できることはいっぱいあるのです。
さて、パウロ自身も、福音を伝えるために語る相手に適応していきました。ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようになったのです。また弱い者には弱い者のようになりました。それは幾人かでも救おうとしたからでした。「私はすべてのことを福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受けるものとなるためなのです。」相手のために、変化を恐れないで適応して行ったパウロの言葉です。
私たちも今この時、適応力が試されています。どのように変化をすればいいか。どのように工夫をすればよいか。現実を受け入れつつ、しっかりと適応していきましょう。今こそ福音を伝えるチャンスでもあります。不安や恐れを抱えている人に、ここに救いがあるとお知らせいたしませんか。神様が働かれます。

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