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NO.568  2019.07.07

「触れるものに似る」

 

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。…私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:16、18)

 

私が副牧師になったころ、ある方から「あなたの説教スタイルや話し方は、主任牧師と似ている」と言われたことがありました。私は全く似ていないと思っていたのですが、人から見れば、言い回しであったり、しぐさであったり似たところがあったのでしょう。そう思ってほかの副牧師を見ると、同じようにその教会の主任牧師に祈り方や説教スタイル、言葉遣い、ポイントの挙げ方まで似てる牧師がいることに気付きました。主任牧師のメッセージを聞き続けていると、だんだんと話し方やしぐさ、ビジョンが同じようになるのは自然なことだと言えます。
「学ぶこと」は「まねぶこと」ともよく言われます。私も「良い説教を沢山聞いてそれを自分なりに咀嚼すればそれはあなたのメッセージになる。」と言われたものです。特に若い頃は貪欲にいろいろなことを学び、良いと思ったことはどんどん真似て試してみるとよいと思います。
「人は触れるものに似る」のです。「似た者夫婦」という言葉があります。夫婦はいつも一緒に過ごし生活しているとだんだんと影響し合って似てくるのです。食べ物の嗜好や趣味だけでなく、考え方、外見まで似てくるようになるのです。
私たちの信仰のモデルはもちろんキリストです。このキリストに触れ続けると私たちはキリストの生き方に似てくるのは当然のことです。ですから「信仰生活は絶えずイエスに触れ続けることである」ということができるでしょう。主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くのです。それは「人が主に向く」ことで起こってくる変化なのです。
では何をもってイエスに向き合い、触れ続けると言えるのでしょうか。まず第一は聖書です。聖書を読まずして神様のみこころを知ることはできません。聖書の中に神様のお考えや御計画、私たちへの導きガイドが記されているのです。ですから、み言葉に触れ続けてください。良いみ言葉は積極的に暗記しましょう。そしてそのみ言葉を告白し続けるのです。その告白があなた自身をキリストに似させることを覚えたいと思います。
イエスに触れることの第二は祈りです。祈りはクリスチャンにとって呼吸のようなものだと言われます。祈りのない生活は私たちを呼吸困難にさせ、やがて窒息することになってしまうでしょう。ことごとに祈るのです。神様に訴えるのです。あなたの願い。辛さ。困難。また、喜び。感謝。導き。子どもがお母さんに何でも話すように、イエス様に語り続けましょう。イエス様は私たちを無視したり、ほったらかしには決してされません。イエス様のいのちを吸い込むような思いで、祈りの中でイエス様と生の会話をいたしましょう。
イエス様に似る第三は実践です。イエスが言われたことを今日一日どのように実践するか、できることをアクションに起こしていくのです。行動を通して身についてくるのです。聖書を読む。祈る。教会の礼拝に参加する。祈祷会に参加する。ファミリーセルの共同体で交わる。奉仕をする。主が示されることを実践し始めようではありませんか。あなたはだんだんとキリストに似るようになってくるのです。

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