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NO.556  2019.04.14

「十字架のイエスを見上げる」

 

この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。と言った。 (ルカの福音書23:47)

 

今週は受難週です。そして今日は「棕櫚の日曜日」です。十字架にかかられる週の日曜日に、イエスキリストはエルサレムにろばの子に乗って入場されました。多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、また、棕櫚の枝を取ってきて道に敷き詰め、イエスを歓迎したのでした。その棕櫚の枝から、棕櫚の日曜日(パームサンデー)といわれるようになったのです。
エルサレム全体がイエスを救い主として迎える大歓迎ムードでした。ちょうど過ぎ越し祭とも重なっていましたから、巡礼者も数多く、人々でごった返しており、その喧騒の中で人々のイエスへの期待は最高潮に達していました。
しかし、その歓迎も束の間でした。数日もしない間に人々は、今度は違う叫び声をあげたのです。「イエスを十字架につけろ。十字架につけろ。」と。もちろん、背後にはイエスを敵対視する宗教指導者たちや律法学者たちの陰謀とそそのかしがあったのですが、それにしても人々の変わり身の早さには驚かされます。なぜそのような事態になったのでしょうか。
私たちはムードや雰囲気に弱いものです。一つのうわさによって評価が一変してしまうことさえあります。イエスに対する民衆の態度もそうでした。最初イエスを迎えた時には期待感であふれていました。
しかし、期待通りに動かれないイエスを見るうちに、マイナスの情報が流れると、それが一気にイエスに対する反発となって表れてしまったのです。群集心理も作用していたでしょう。イエスを十字架につけろという流れは人々の間に一気に広まり、期待度が大きかった分だけ、反動も大きかったのです。
雰囲気やムードで私たちの態度を決めないようにしなければなりません。確かに信仰的、前向き、明るい雰囲気は大切です。しかし、それは私たちの確固とした生き方から生み出されるものでなければなりません。雰囲気が信仰を生み出すのではないのです。もし信仰がムードや雰囲気に左右されるとするなら、浮き沈みの多い生き方になってしまいます。順調な時や楽しいときはいいのですが、試練や困難が起こるとやっていることを投げ出したくなるからです。
そこから脱却するためには、いつもイエスを見上げることです。イエスと個人的な交わりをしっかりと確保することです。十字架に掲げられたイエスを多くの人たちが見上げていましたが、その中の何人かはイエスの十字架の姿に心が動かされていきました。
イエスを十字架につける命令を受けていた百人隊長は、イエスを見上げているうちに、犯罪者を見る目ではなく、「正しい人」を見る目に変わっていきました。マルコの福音書を見れば「神の子」としての認識を持ったことが示されてます。そして「神をほめたたえる」人へと変えられていったのです。
周りの状況に流されない生き方は、しっかりとイエスを見上げることから始まります。この受難週、私たちは十字架にかかられたイエスをしっかりと見上げ、イエスとの交わりに十字架を通して入れられていることを心に刻みたいと思うのです。

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