「すべてに感謝」
また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。 (マルコ14:23)

2018年も終わりを迎えようとしています。愛する皆様にとってはどのような年だったでしょうか。試練の多かった年という人。あるいはおおむね何事もなく過ごせたという人。目標を達したという人。また、アップダウンの多い年でどのように総括するかは難しいと思う人もいるでしょう。しかし、どのような状況であれ、こうして年の瀬を迎えることができることを感謝したいと思います。
私たちの感謝の土台は、目に見える状況や事象が良いから感謝をささげるのではありません。確かに自分にとって良かったから感謝をするというのも良いですが、たとえそうでなかったとしても私たちは神様の御手の中に生かされていることを感謝したいと思います。私たちは主の許しがあるので生かされているのです。命は神様から預かっており、生かされているのです。ですから、状況がどうあれ、主を喜び感謝を主に捧げようではありませんか。
私たちは神様から頂いている人生のプロセスの中にあるのです。人生を一つの絵に例えるならば、完成されるべき人生の絵を描いている途中にあるということができます。絵の中には明るい部分もあれば、場所によれば暗い部分もあります。絵の濃淡やコントラストがあってそれがちょうど完成されたときには素晴らしい絵になるように、神様が私たちの人生を素晴らしい絵として完成させようとしておられるのです。私たちの歩みはその過程にあるのです。人によってはその絵の暗い部分が今年だったのかもしれません。しかし全体から見ればそれも素晴らしい絵の完成のためには必要な部分なのです。
イエスはどのような時も神様に感謝をささげられました。十字架にかかる前の晩も弟子たちと最後の食事をとるとき、イエスはぶどう酒の杯をとり感謝をささげて弟子たちに与えられました。
イエスが感謝をささげた杯は象徴的な意味を持ちます。この杯はイエスがこれから受けようとしている「苦難の杯」、すなわち十字架を意味していたのです。しかしイエスはそれを感謝されたのでした。
人から見れば感謝できないような苦しみの杯です。しかし主イエスはそれを感謝されたのです。イエスは十字架の苦しみという杯を神様に感謝をささげて受け取り、飲まれたのでした。
なぜでしょうか。なぜなら、イエスのこの十字架の苦しみのゆえに、人類の罪が赦され救われる道が開かれたからです。もし、イエスの十字架がなければ私たちは今もなお罪の中に沈んでいたことでしょう。神はイエスの十字架の死をイエスが果たす救いの完成の中に組み込んでおられたのです。ですから、イエスは神の救いの完成の時としてこの苦難の杯を感謝されたのでした。
今この時私たちは置かれている状況を神様に感謝をささげたいと思います。苦しいことを感謝しなさい、というのではありません。神様の御手の中で導かれていることを感謝するのです。味わっている苦しみも神が用いて益に変えてくださることを信じましょう。苦難がのちの重い栄光をもたらせることを信じて感謝をささげようではありませんか。