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NO.535  2018.11.18

「渡るべき川がある」

 

「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。(ヨシュア記1:2)

 

昨日、教会員のお母様が88歳の生涯を終えて天に召されて行かれました。生前わたくしも何度も親しくお交わりとお祈りをさせていただいただけに、心寂しい思いがいたします。今週の金曜日に家族での葬儀が行われる予定ですが、神様を信じておられたお母さまを祈りをもってお送りしたいと心より願っております。
私たちの人生には出会いもあれば、別れもあります。出会いはうれしいものですが、別れは寂しく時には悲しいものです。特に死別はそうでしょう。しかし、その時をしっかりと受け止めつつ、前に向うきっかけとするなら、その死も意味あるものとなるのです。
ヨシュアはモーセの側近としてイスラエル人をエジプトの奴隷生活から解放し、約束の地を目指して40年間荒野の旅を共にしてきました。しかし、そのモーセが死んだのです。どれほどの喪失感が彼を襲ったことでしょうか。モーセに従い言われるままに歩んできたヨシュアにとって、いわば自分の師を失ったのです。これから自分が後継者として立てと言われても、心の準備が整ってはいませんでした。恐れや不安、臆病にもなっていたに違いありません。
しかし神様はヨシュアに言われました。、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」
意気消沈しているヨシュアに神様の言葉は大きなチャレンジでした。まだ自分には無理だ。ふさわしくない。そんな思いが彼の頭をよぎったに違いありません。神が共におられる。そう約束を聞いても、現実はリアルですから、信仰の心と現実の狭間で格闘をしたことでしょう。
神様はヨシュアの揺れる心をご存知でした。神様は言葉をもってヨシュアの背中を押されたのでした。彼の眼にはヨルダン川はどのように映ったことでしょう。渡り難い大河に見えたかもしれません。確かにヨルダン川の向こうには約束の地が広がっています。しかし、そこに行くには渡らなければならないヨルダン川があるのです。
私たちにとって渡らなければならないヨルダン川とはどのような川でしょうか。ある人にとっては「失望の川」かもしれません。そんなの無理だという「不可能の川」かもしれません。今までの「否定的な思考の川」かもしれません。手前で文句を言い、嘆いていれば、現状維持はできたかもしれません。しかし、神様の祝福を手にすることはできないのです。いつか、どこかの時点で決断して踏み出さなければならないのです。そして決断して踏み出す時に、紅海が分かれたように、ヨルダン川も分かれて歩いて渡ることができるのです。
神様はヨシュアに「立ちなさい」「渡りなさい」「行きなさい」と言われたように、私たちにも信仰のアクションを起こすようにと促しておられるのではないでしょうか。自分の目前の「ヨルダン川」は何かを見極め、立ち上がり、渡り、行こうではありませんか。神様がしてくださいます。

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