「後でわかる」
イエスは答えて言われた。
「わたしがしていることは、今はあなたがたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
(ヨハネ13:7)

先日、携帯電話を変えました。古い携帯のデータやアプリをバックアップから復元しようとしたのですが、ラインだけがうまく引き継げず、結局新しいラインアカウントを作成することになりました。牧師と連絡が取れないと心配された方もおられるかもしれませんが、そのような事情があったのです。それで新しいラインで新たに友達招待したり、登録されている携帯から友達としての認識のやりとりをしている間に、一人の方からラインメールが来ました。「どちらさんですか?」
その方はしばらく教会に来られていない若者でした。教会に来なくなって、その後病気になったり、経済的に大変であったりと苦労をしていたようです。どうにかして今の状況か抜けだしたいと祈っていた時に、私のライン招待のメールが彼に届いたのです。それから彼とのやり取りが始まり、先週の木曜日に訪問して会うことができました。
1年ぶりの再会でした。以前の彼とはいぶんと違って素直に話を聞いてくれました。別れる時に一緒にお祈りをしました。これから神様が道を必ず開いてくださるように。主イエスが救ってくださるように。そうして落ち着いたら是非教会に来ることの約束をして別れました。
スマートフォンのライン引継ぎがうまくいかなかったことからの不思議な再会でしたが、神様はその不都合も用いて彼との再会をさせてくださいました。
ときどき私たちは起こっていることが理解できないことがあります。行き詰り混乱したりすることもあります。なぜ、どうしてと問うても、答えが出ないこともしばしばです。しかし私たちにはわからなくても、神様は導いておられて、自分にとっての不都合も神様の目的に従って用いられるのです。
最後の晩餐の時でした。イエスは食事の後、たらいに水をくみ、弟子たちの足を一人一人洗われました。しかし、弟子たちにはイエスのされることが理解できなかったのです。なぜなら他の人の足を洗うことはしもべの仕事だったからです。
イエスは弟子たちの思いを察知されて「わたしがしていることは、今はあなたがたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と言われました。確かに、イエスの十字架と復活を経て、イエスが足を洗われたのは、汚れた私たちの罪をご自身の血で洗われることの象徴であったこと。また、私たちに仕えるとはどのようなことなのかを足を洗うことで示されたということが理解できたのでした。
すべては神様のみ手の中で導かれていることを信じようではありませんか。あなたの置かれている状況は次の展開のための始まりなのです。たとえ自分が望もないような状況が展開していても、そこで神様を見上げ始めることで、新しい状況が開かれると信じようではありませんか。
是非、神様からあなたへ祝福への招待が始まっていることを信じてください。それはもうそこまで来ているのです。応答されるならあなたはイエスとつながることができるのです。