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NO.522  2018.08.19

「神に飢え渇く」

 

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。(詩篇42:1-2a)

 

先日、あるクリスチャンの方とお交わりをしていました。その方が、「先生、最初教会に来た時、私は家族の問題を抱え、経済的にも本当につらいところにいました。そこから神様を信じることができて本当に感謝です。しかし、今になって思えば、あの試練があったから神様に出会えたのだと思います。私のように頑固なものが救われるにはあの試練が必要だったのだと思います。でも、今はその問題も解決して感謝ですが、導かれていた時のような必死さが今は少ないように思います。これからは自分の問題を解決していただき救われたのですから、同じような試練の中にある人のためにイエス様のことを証ししていきたいと思います。」これから神様に用いられるように祈りを共にささげたことです。
確かに、私たちが信仰に熱心になるときは、問題や試練に直面する時ではないでしょうか。家族に問題がある、病気、失業、人間関係の問題など様々なことで私たちは悩むのです。しかし別の面から見ればそれらの悩みは私たちに自分の無力さや弱さに気づかせ、神を求める飢え渇きをもたらせるのです。ですから神に近づくためには必要な飢え渇きがあるということができます。試練は私たちに飢え渇きを起こさせるために神が用いられる手段と言えるのです。
しかし、同時に神様は私たちの弱さをご存知ですから、耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。「むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)ある通りです。
試練を通して飢え渇き、神に出会い、救いを得た私たちです。では問題がなくなったらそれでいいというのではありません。私たちはイエス様のみ姿に変えられていくプロセスに導かれ、主の弟子となって主の働きに参与することが期待されているのです。
宗教改革者マルチン・ルターは「最も危険な試練は、試練がないこと、すべてがうまくいっている時である。その時、人は神を忘れ、ずうずうしくなり、繁栄の時を悪用するように誘惑される。」と語っていますが、傾聴に値する言葉です。
イエスキリストの福音は、単なる問題解決のための道具ではありません。私たちを罪の中から救い出してくださった神は、私たちを通して、キリストの福音の使者として用いたいと願っておられるのです。神の使命を果たすために私たちは救われたと言っても過言ではありません。
問題が解決し、試練から脱出させていただいた私たちは、そこにとどまることなく、神の福音の使者となって出て行こうではありませんか。
私たちが持つ飢え渇きは、キリストが持たれていた滅びゆく魂のための飢え渇きであり、うめきです。そのために聖霊の力を求めて飢え渇きましょう。祈りの力に満たされましょう。内住なるキリストの御声を聞いていこうではありませんか。

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