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NO.513  2018.06.17

「どんな時も共におられる」

 

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイの福音書28:20b)

 

アメリカに一組の御夫婦がいました。奥さんが目の病を患い手術をしたのですが、その手術がうまくいかず失明をしてしまいました。失意から何とか立ち上がり、二年後、会社の好意を得て目が不自由でもできる仕事を作ってくれ職場に復帰することになりました。夫は彼女の送り迎えをしながら一生懸命にサポートをしてくれました。
ある朝、夫は妻に「だいぶ慣れたようだから、今度は一人でいくようにしなさい」。彼女は不安を覚えましたが、なんとかに一人で行けるように頑張りました。そして次第に慣れて職場に行けるようになったころ、バスに乗るとバスの運転手が「奥さん、いいですね。旦那さんがずっと見守ってくれ、ついていてくれて。」 
その時、彼女は悟りました。夫は自分が無事に職場に行くことができるように、家で見送った後、こっそりとついてきて、バスにちゃんと乗れるか。降りる場所でちゃんと降りられるか。歩道はちゃんと渡れるか。うしろからそっと見守ってくれていたのだと。夫の愛と配慮に感謝せずにはおれませんでした。
イエス様の愛はまさに、この夫のような愛にたとえることができるのではないでしょうか。ときどき私たちは神様は何も私のためにしてくれない。そんな不満が沸き起こってくる時があります。自分一人が苦労し、自分一人が頑張っている。イライラが募り、周りにあたりたくなるのです。だれも自分の労苦を認めてくれず、孤独感に襲われたりするのです。しかしイエスはその時も共におられるのです。
弟子たちがガリラヤ湖を舟で渡っている時の事でした。突然、ガリラヤ湖特有の突風が吹いてきて大しけになります。舟の中に水は入ってくるし、強風に舟は木の葉のように揺れて今にも沈みそうになるのでした。イエスはと言えば、舟のともの方で疲れて寝ておられたのです。
ペテロたちはイエスを揺り起こして言いました。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」(マルコ4:38)するとイエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われました。すると風はやみ、大なぎになったのでした。
弟子たちの姿は私たちの姿と重なります。大風のような問題や悩みに翻弄され、自分自身がおぼれて沈んでしまうように思ってしまうのです。問題ばかり見ているとイエスが見えなくなってしまいます。しかし、イエスはちゃんと私たちと同じ舟に乗っておられるのです。
イエスキリストは私たちを決して忘れたり、見捨てたりするようなお方ではありません。一見なにもされないように思える時も、私たちを見守っておられ、私たちが神に信頼して信じて歩むプロセスをたどらせようと愛の配慮をしておられるのです。ちゃんと、イエスは風を静められたように、私たちの問題を静め、平安を与えてくださるのです。このお方が問題の時だけおられるのではなく、いつも共にいてくださるのです。
私たちが意識できようとできまいと、イエスは私たちを見守り、助けてくださいます。このお方をしっかり見上げようではありませんか。試練の中でも、恐れを覚える時も、私たちと共に主はいてくださいます。
今日も、このお方とのきずなを強めつつ歩んでまいりましょう。

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