閉じる

 

 

NO.399 2016.04.10

「神の国の価値観(5)」-キリストを知ることの素晴らしさ-

 

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、
いっさいのことを損と思っています。(Ⅰコリント5:17)

 

小さい頃に過ごした田舎は、山に囲まれ緑豊かで、とてものどかでした。山や雑木林は格好の遊び場で、特に夏はセミやクワガタを取るのに夢中になったものです。引っ越しのため田舎の家を整理していた時、小学校の夏休みの宿題で作成したセミの標本が出てきたことがあって、当時のことを懐かしく思い出しました。
では、今でもセミ取りが好きかと言われると、確かに嫌いではありませんが、実際にセミを取りに行ったり、それに夢中になることはもうありません。
趣味だけではなく、かつては夢中になっていたけれども、今は冷めてしまったとか。興味が変わってしまったというようなことは事はいろいろとあるのではないでしょうか。
私たちの生き方や価値観についても同様のことが言えます。パウロはキリストに出会うまでの自分とキリストに出会ってからの自分の価値観が大きく変化したことを告白しています。かつては、パリサイ人という家系に誇りをもってしました。学歴もガマリエル学派で大きな誇りでした。また律法の実践においても、自ら非難されるところがないと言えるほど忠実で、誰よりも熱心であると自負をしていたのです。しかし、キリストに出会い、キリストの素晴らしさを味わい、キリストにある使命に生きれば生きるほど、かつて誇っていたものが色あせていったのです。それどころか、かつて誇っていたものがキリストの素晴らしさを知るうえで邪魔になり、損であると思うほどに認識が変わってしまったのでした。彼の価値観がこの世の価値観から神の国の価値観に変わったのです。神の国の価値観に浸れば浸るほど、その価値の素晴らしさに目覚め、今まで強く持っていたプライドの軽薄さに気づくようになったのでした。本当にそれはパウロにとって大きな価値の転換でした。
私たちの価値観はパウロのような転換にまで変えられているでしょうか。いまだにこの世の価値観に振り回されていることはないでしょうか。この世の価値観は私たちの思考に知らず知らずのうちに様々な影響を与えています。テレビやネットで流れる情報が強力に私たちの意識に突入しているのです。私たちを物質欲に駆り立て、様々な肉の欲望を刺激し、他者との比較に生き、この世の基準に従わなければ時代遅れのように思わせてしまうのです。
しかし、私たちが一番にフォーカスすべきものはイエスキリストです。イエスとの交わりの素晴らしさを体験しましょう。イエスの恵みに生きることの喜びを会得いたしましょう。何にも代えがたいイエスの愛の深さを覚えましょう。神の使命に生きることの喜びを自分のものといたしましょう。
キリストを知ることの素晴らしさは、この世が提供するどんなものよりも偉大なものなのです。今日もキリストの素晴らしさをじっくりと味わうものとなろうではありませんか。

閉じる