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NO.396 2016.03.20

 「「神の国の価値観(2)」-罪の赦しに生きるー

 

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
(ヨハネの福音書1:12)

 

ある牧師先生から聞いた話です。その先生は8人兄弟の末っ子として生まれたそうです。子沢山の家庭が多かった時代でした。それだけ子どもが多いと親も皆に目が行き届きません。また、末っ子の子どもでしたから、望んで生まれたというのでもなかったようです。だからかどうかはわかりませんが、よく親から「お前は橋の下から拾われてきたんだ」と言われていたそうです。自分もまともにそれを信じて、小学校に上がるくらいまでは自分は拾われてきたんだと思っていたそうです。ですからイエス様を信じたとき、自分はほんとうの親に出会ったという安心感を感じたそうです。
さて、私たちが神の国の価値観としてしっかりと受け止めること、それは自分は「神の子ども」とされているという事実です。神の子どもになれるという単なる希望ではなく、神の子どもとなっているのです。聖書ははっきりとしかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書1:12)と明言しています。イエスを信じたものは神の子どもとされているのです。
神の子どもとされている特権は何でしょうか。それは第一に神の愛情を一心に受けているという事実です。神はどれほど私たちを愛しておられるでしょうか。ひとり子イエスキリストを私たちの罪の身代わりとしてささげるほどに愛してくださっているのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)とあるとおりです。神の愛は無条件の愛です。「いい子にしていれば愛すよ。」というのが人の愛の傾向です。それは条件付きの愛です。そのような愛に浸ってきた私たちは神の愛さえ受け取れないのではないかと、疑ったり、資格がないと思ったりするのです。しかし、神の愛はそうではありません。「あなたは神に無条件で愛されている。」このことをしっかりと心に刻みましょう。
神の子どもとしての特権の第二は、神と自由に交わることができるということです。親子であれば、家に自由に出入りができ、冷蔵庫の物も自由に食べれます。会話を楽しみ、何か願い事があれば、親に頼むこともできます。そこには自由な意志と自由な交わりが存在するのです。神様との関係もそのような自由な関係なのです。私たちはいつでも大胆に神のみ座に近づくことができるのです。
神の子どもとしての第三の特権は、どんなときにも神に助けを求めることができるということです。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)とあるとおりです。あなたが苦境にあるなら、すみやかに助けてくださいます。どのように進めばよいかわからなければ、導きを与えてくださいます。それは神様があなたを子どもとして扱ってくださっているしるしです。
第四の特権は神は私たちが成長することを心から願い喜んでくださるということです。子どもの成長を願わない親がいないのと同様に神様は私たちが信仰において成熟していくことを願っておられます。「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」(Ⅱコリント3:18)とあるとおりです。神の子どもとして歩む恵みを豊かに享受しようではありませんか。

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