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NO.394 2016.03.06

 「十字架の光を見つめよう

 

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネの福音書9:3)

 

私たちは物事がうまくいかなくなるとその理由や原因を探します。確かに原因を追究することは大切なことですが、人生においてはその原因がなかなかわからないことも多いのです。また、わかったとしてもその問題を自分自身では取り扱えないことがほとんどです。
また、その過去の傷や過去のつらい体験にばかりフォーカスをしていると、ますます辛く苦しくなったりします。
更に、よくキリスト者も陥ることですが、神様の救いにあずかっていても、状況が悪くなると、自分が悪いからだと自分を責めたり、自分の存在を受け入れられなくなったりして、苦しむことにもなります。
イエスが来られた目的は、過去から続く悪い流れを終わらせ、キリストによってもたらされる新しい流れを生み出すことでした。そのためにイエスキリストは十字架にかかり、今までの罪の流れを断ち切り、復活によって新しいいのちの道を備えてくださったのです。この十字架と復活の視点をいつも自分の心に置くことが大切です。
生まれつき盲人であった人をイエスが癒された話は有名です。盲人を見た弟子たちは、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」とイエスに尋ねたのでした。弟子たちは盲目で生まれた原因を探ろうとしていたのです。当時は因果応報の考え方が根強くありましたから、盲目で生まれた原因が両親の罪にあるのか、それともこの人自身の罪にあるのかと考えたのです。
しかし、イエスは明確に答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」イエスは原因探しをして、誰かを犯人に仕立て上げようとは決してなさいませんでした。むしろ、盲目に生まれたのはこの人に「神のわざがこの人に現れるためである」と語られたのです。何と肯定的な答えでしょう。誰も責めてはおられません。神のみわざが現れるためなのです。私たちもこのイエスのような未来志向型の、肯定的で、前向きなとらえ方生き方をしようではありませんか。
あなたに起こっていることが神の手に握られるとき、それは神のわざが現わされるようになるのです。このことをしっかりと信じようではありませんか。
私たちに起こるすべての事柄を通して、神は神の栄光を表してくださいます。イエスが来られたのはまさにそのためでした。十字架の意味もそこにあるのです。
積極的に十字架を捕らえたいと思います。イエスの十字架から目を離さないようにしましょう。あなたと問題の間にイエスの十字架を立てましょう。十字架の光はあなたの暗い心を照らします。イエスにありのままの自分をそのまま告白しましょう。そこに十字架の光を照らしてくださいと祈ろうではありませんか。神が語られることに素直になりましょう。自分自身を自分の手の中から神の手の中にゆだねていきましょう。十字架の光を全身で受けようではありませんか。光は闇を駆逐するのです。 

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