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NO.388 2016.01.24

 「愛を土台として

 

たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、
また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。
(Ⅰコリント13:2)

 

私の孫も一歳になりました。一年で随分と成長しました。まだ何歩かですが、歩けるようにもなりました。しゃべっている言葉も次第に意味をくみ取れるようになってきました。自分の意思もはっきりと主張し始めています。でも、なんでも口にもっていこうとしたり、どこにでも行こうとするので、目が離せません。お母さんもお父さんも苦労しているようですが、でもそれがまた嬉しいようです。子育ては忍耐の連続です。親の思うようにばかりは子供は育ちません。辛抱しながら養育していくことになります。
私たちの信仰の成長も子育てと似ています。よちよち歩きからキリストに似るように成長していくのです。しかし、忘れてならないのは成長には個人差があるということです。ぐんぐん成長する人もいますが、時間のかかる人もいます。年齢、性別、経験、家庭環境、など千差万別、違った人たちがキリストを中心として信仰共同体を形成しているのが教会です。互いが兄弟、姉妹と呼び合うように、私たちは信仰の家族なのです。
信仰の家族が豊かな関係を構築するときの留意点を押さえておくことは大切なことです(これは多くのの共同体に当てはまります)。その第一は、まず互いの人格を認めるということです。相手を尊敬する心を持ち、互いの違いを認めることを前提に関係を築きましょう。時々、自分の思いを受け取ってくれないとイライラしたり、腹が立ったり、わからせようとますますカッカしてしまうことになります。信仰の成長の度合いも自分とは違う場合もありますから、自己主張しすぎないことです。その方のうちに聖霊が働いておられることを信じ、聖霊なる神が気付かせてくださるようにゆだね祈ることが大切です。
また第二に信仰の成長には忍耐が必要です。その人はどのような人なのだろうか、どういう人生を歩んでこられたのだろうか、等々。相手をまず理解するところから関係作りは始まっていくのです。自分の価値観を相手に押し付けないで、その人に寄り添っていく。神の祝福と導きを祈る。そのような中で互いが関係の中で成長していくのです。
第三には愛を土台として歩むことです。教会の中には様々な賜物や信仰を持っている方がいます。しかし、それらが愛を土台として用いられなければ、何の意味もないと聖書は言っています。互いが競い合うのでもなく、自慢するのでもなく、教会に仕えるため、人に仕えるために用いられていくときにはじめてその賜物や能力が主によって用いられてくるのです。

第一コリント13章はすべてにまさっていかに愛が大切かということが記されている「愛の章」と言われています。この章が賜物をどのように教会で秩序をもって用いられなければならないかを述べた12章から14章の間に記されていることは大変意味があることなのです。私たちの行動すべては愛を動機としてなされ、愛の関係を築くためになされていくことを忘れてはならないのです。 

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