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NO.373 2015.10.11

 「あなた次第

 

そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」(マルコ福音書10:51)

 

聞いたことのある話です。人里離れたところに何なんでも見抜くことができると言われている老人がいました。村のいたずら小僧たちは、この老人の鼻を明かしてやろうと計画を立てて、老人に会いにやってきました。彼らの手には捕まえた小鳥が握られていました。              
「おじいさん、おじいさんはなんでも見抜くと言われているけど、僕の手に握っている鳥は生きているでしょうか。死んでいるでしょうか。」小僧たちはもし老人が「生きている」といえば、手の中できゅっと絞めて殺してしまおうと考えていたのです。どちらになっても勝てる算段でした。
老人はいたずら小僧の策略を見抜いてこう答えました。「その鳥のいのちはお前たちが握っている。」と。確かに小鳥のいのちは小僧たちに握られていたのです。
この逸話は私たちに様々なことを教えてくれます。私たちの人生は他人が握っているのでもなく、周りの人が決定するのでもなく、自分自身が握っているということです。
自分の人生がなかなかうまくいかないのは、周りが悪い。親のせいだ。環境だ。という人たちも多くいます。たしかに、自分を取りまく環境が厳しく、なかなか思うようにいかないということもあるでしょう。しかし、それを嘆いていても環境や周りが変わるわけではありません。それよりもむしろ、今自分自身ができることはなにか、自分の選択と決断に集中して行動していくことです。人生が切り開かれるのは自分次第だということができます。
エリコという町に、生まれつき目の見えないバルテマイという人がいました。イエスがエリコにやってくるということを聞いた時から、バルテマイはイエスのもとに行こうと決心していました。やがてその時がやってきます。群衆の足音が近づいてくるのを見計らって、彼は思いっきり叫び始めました。「ダビデの子のイエスさま。わたしをあわれんでください。」 人々は彼を黙らせようとしましたが、彼はますます、「ダビデの子よ。わたしをあわれんでください。」 と叫び続けたのです。 やがてその声がイエスに届き、イエスのもとに連れてきてもらいました。御許に来たバルテマイにイエスは「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられます。すると、「先生。目が見えるようになることです。」と即答します。イエスは彼の信仰を見て、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われ、彼の目や癒されるのでした。
イエスが来るという情報を聞いても、もし彼が声を張り上げなければ、もし黙れと言われて黙っていたら、大勢の人で無理だと思ってあきらめていたらどうでしょうか。また、「何をしてほしいのか」と聞かれたときにあいまいに答えていたら彼の目は開いたでしょうか。彼は心で決めていたのです。誰が何と言おうとイエスのところに行こうと。叫び続けようと。目が見えるようになることですとはっきりと言おうと。この彼の一連の行動。それが信仰なのです。ネガティブな情報に影響を受けて、自分の信仰の決断を鈍らせてはいませんか。イエスに向かって近づいていきましょう。主よと叫び続けましょう。常識から抜け出して、神の恵みの世界にはいる鍵は私たちにかかっているのです。

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