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NO.372 2015.10.04

 「常識の壁を越えてみよう

 

ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」(ヨハネ福音書3章9節)

 

以前伺ったことのある話です。その教会は国際色豊かな教会でした。教会学校の時間に、床に世界地図を広げてみんなで見ていたそうです。教会学校の先生が気を利かして、逆さに地図を見てしまう子供たちのために、地図を正面から見ることができるように地図を回しました。すると向かいにいる黒人の子供が「どうして地図を回すの。そのままにしておいて」「どうして?ちゃんと正面から見えたほうがいいでしょう。」「ううん。いつも僕たちはこうしてみるの。」よく話を聞いてみると、彼らの学校では小さいころからいつも地図を囲んで見ていたので、いつの間にか逆さの地図が正しい地図だと思うようになったようなのです。そういえば、北半球に住む私たちは、北極が上で南極が下の地図を見る習慣になっていますが、南半球の国では、天地が反対の地図を使っているのです。
私たちが持っている常識も時には疑ってみることが必要です。当たり前のことが実は当たり前ではなく、常識だと思っていることが非常識なのかもしれません。生活の中でこのような逆転をしばしば経験すのではないでしょうか。
信仰の世界も同様のことがおこります。ニコデモというユダヤ人の学者の場合もそうでした。彼は、いわば律法の専門家です。しかし、その彼が神の国のことについてもっと知りたいと、夜イエスの元にやってきたのです。イエスのなされることは今まで彼が研究してきた枠では測りきれず、自分の知らない常識を超えた神の世界があると感じていたからです。
イエスは訪ねてきたニコデモに「人は新しく生まれなければ神の国に入ることはできません」と言われます。のっけからニコデモは混乱してしまいました。老年になっていて、また母親のおなかから生まれてこなければならないのか?理解しようすればするほどわかりません。
「新しく生まれることを不思議に思ってはなりません。人は水と御霊によって生まれるのです。」ニコデモはますます混乱してしまいます。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれるものもみな、そのとおりです。」イエスの言葉にニコデモは思わず「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」と反応してしまいました。
これが普通の人の反応でしょう。彼が物分りが悪かったのではありません。自分の理性や学問、理屈でそれを知ろうとしても理解できない世界が信仰の世界です。もちろん、信じるに至る道は様々な推論や自然界を見れば手がかりを得ることはできるでしょう。しかし、神を信じることが必要なのです。理屈はわからなくても、信じることで、神の素晴らしい世界が開かれてくることを体験することはできます。イエスの言われた言葉をそのまま信じて受け入れる。この単純な道にこそ確かな真理があることを覚えたいと思います。   自分の考えではわからない世界があることを認めましょう。聖霊の助けによって、信仰によってのみ開かれる神のダイナミックな働きを体験するものとさせていただきましょう。理解できなくても、信じて踏み出していこうではありませんか。

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