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NO.139  2011.04.17

「苦しみを負われるイエス」

 

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。
これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
(マタイ27:46)

 

今日は教会暦では「棕櫚(しゅろ)の日曜日(パームサンディー)と言われる日にあたります。イエスがエルサレムでの最後の一週間を過ごされた週でもあり、受難週が始まる日でもあります。
 人々はこの日、棕櫚の木の枝を折って地面に敷きながら、「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」と言って、イエスを大歓迎したのでした。イエスこそが待ち望んでいた救い主だと誰しもが思っていたので、エルサレムに入場されるときには人々の期待は最高潮に達していました。
 しかし人とは本当にうつろいやすい存在です。今も放射能の風評被害で被災した農家の方々は本当に苦労されていますが、一つの恐れの連鎖が、更に恐れを生んでしまっているのです。人の心理は支配されやすく、また変化しやすいものです。イエスを大歓迎した人達も、イエスを抹殺しようとする宗教指導者たちの流したいわゆる悪意に満ちた風評によって、態度を一変させてしまいます。
イエスは救い主ではなく、人を惑わす者であり、神を冒涜する者だという烙印を巧妙にはらせてしまうのでした。彼らの策略はローマ総督ポンテオピラトに対して「犯罪人であるバラバを赦し、イエスを十字架につけよ。」という叫びにまで拡大していきます。そうしてついには、暴動を恐れたピラトはイエスに対する無罪判決を覆してしまうのでした。
 イエスはゴルゴダという刑場に連れて行かれ、2人の犯罪人と共に十字架につけられます。冒頭の言葉はイエスが十字架上で語られた七つの言葉の一つですが、最も心裂かれる言葉ではないでしょうか。
 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」神の子イエスの叫びです。私たちはこの言葉をどのように捉えたらよいのでしょうか。この言葉はまさに見捨てられた者の叫びそのものです。イエスが神から見捨てられた。深い愛の交わりの中におられた父なる神様とイエスキリストとの関係が絶たれ、神が見捨てられたのです。
それは実は私たちが自分の罪故に神に見捨てられ叫ばなければならない叫びだったのです。もし私たちが自分の罪を負わなければならなかったとしたら、到底負いきれるものではありません。神に見捨てられて当然のような者だったのです。しかし、神は私たちが叫ぶその叫びをイエスに負わせられました。罪なき神のひとり子が私たちの罪の身代わりとなって、神に見捨てられ死なれたのです。私たちを愛しておられる神はその罪を私たちに負わせないで、イエスに負わせられたのです。イエスが負われた苦しみ、叫び。それらは私たちの救いと解放の為であったことを深く心に刻みたいと思います。
あなたや私のために神に見捨てられたイエスがいてくださる。代わりに我らの裁きを負われたイエスがいてくださる。だからこそ私たちの罪は赦されるのです。この十字架こそが私たちの救いの確証であり、私たちの救いの根拠なのです。この受難週の時私たちは主の十字架の前に砕かれ、主の圧倒的な愛に満たされ、心新たに立つ者とさせていただきましょう。

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