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NO.128  2011.01.30

「宝探し」

 

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。
人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
(マタイの福音書13:44)

 

富山県砺波(となみ)市の精米所で精米をしていたら現金2百数十万円がその中から見つかったそうです。従業員が精米作業中、精米機が異物としてはじき出したそうで、拾得物として警察に届けられました。警察ではどこかの農家か集配業者が誤って混入させたのではないかと見ているとのことでした。こんなニュースを聞くと、誰が何故混入させたのだろうと考えてしまいます。誰かがへそくりを米袋の中に入れておいたか、犯罪がらみか、等々。しかしまさかこんな所に大金が入っているとは誰も想像しなかったことでしょう。どこに何があるかわからないものです。
 私たちの幸せも同じようなことが言えるのではないでしょうか。多くの人はこうすれば幸せになる。このことが達成されれば満足だと考えます。前述の記事を知ると、あのお金が今あればもっと楽になれるのにと考える人もいるでしょう。しかし、それがあったら本当に私たちは幸せになれるのでしょうか。もちろん必要なお金があるに越したことはないですが、それに執着してしまうと、大切なものを失ってしまう可能性もあるのです。むしろそれがないからこそ争わないで生きていけるのかも知れないのです。
 聖書には「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。」と言われたイエスの言葉が記されています。ある牧師先生が人生とは「宝探しの人生」だと言われていたことを思い起こします。私たちが探し求めている宝は私たちが肉眼や物質で見えるものではないようです。見当違いの所を探していたり、自分が宝だと思って獲得したものが、実は反対に混乱や家族がバラバラになってしまう原因になってしまうこともあるのです。それらは私たちの心を容易に捕らえて支配をしてしまうので、感覚が麻痺してしまうのです。
 イエスは本当の宝とは『天の御国』の中にあると言われています。天の御国とは神との交わりを指すのではないでしょうか。神との愛の関係、これこそが何にも代え難い幸せの土台です。しかし、それはすぐに目に見えるものではないし、関係を築く時間もかかります。信仰という道を通して見出すことの出来る関係ですから、人々は敬遠してしまったりするのです。まさか畑の中に宝があるとは想像できないように、イエスとの関係がそれほどの宝だとは気付かないのです。
 しかしその値打ちと価値を見出した人は、持ち物を全部売り払ってでも、その宝の隠されている畑を買うのです。畑とは神との交わりを持って生きる人生そのものであり、神と共に歩む人生であるということができるでしょう。
どんなに見栄えの良い家に住んでも、家庭が冷え切っていたのでは温かいホームとはなり得ません。どんなに美味しいステーキを食べたとしても、一人ぼっちで食べるステーキはわびしいものです。
あなたがこんな所に宝があるかと思っているところに、素晴らしい宝が隠されていることを覚えてください。驚きに満ちた、ワクワクするような宝探しの人生を送りませんか?あなたの身近な畑の中にそれが隠されているのです。この1年この素晴らしい宝を見出して歩もうではありませんか。イエスはあなたを豊かな祝福をもって隠された宝の場所へと導いてくださっているのです。

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