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NO.126  2011.01.16

「寄り添われる神」

 

「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
・・・そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、
四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。(Ⅰ列王記19:4-8)

 

先日、関東のセルネットワークのコーチングの集いがございました。私も毎回参加させていただいています。教会の本質となる価値観を学びつつ、互いをコーチングし合う集いです。もちろん学びや分かち合いも有意義なのですが、特にこのネットワークでは牧師同士が励まし合う交わりに大きな特徴があります。
私も何人かの牧師先生のコーチ役をさせていただいています。牧師の抱えている悩みや問題を分かち合い、その中で、互いに励まし合うネットワークを作っているのです。
Church Circle Graphic牧師は意外と孤独です。教会の中では牧師として見られていますから、なかなか本音を打ち明けられないという現実があります。信徒の方々の悩みや問題のために祈る事はあっても、自分のことの祈りの要請をすることがなかなかできない事情があるのです。
牧師も生身の人間ですから、落ち込むことがありますし、葛藤することもしばしばです。もちろん神様が助けてくださると言えばそうなのですが、しかし、本音で話が出来、祈れる場があるというのは本当に感謝な事なのです。人は強いときには人の弱さはなかなかわかりません。しかし、自らが弱って初めて人の弱さに気づかされるのです。牧師先生の中には『死にたい』と何度も思うほど、辛い状況に陥られた先生もおられて祈らされました。
聖書を見ると神に用いられた人は、決してスーパーマンではないことがわかります。私たちと同じように悩み、おびえ、苦しむ存在なのです。一見神の人と見られ、力強い預言者として知られているエリヤもまた「死にたい」と思った一人でした。壮絶なバアルの預言者達との戦いの直後、その落ち込みが彼を襲いました。極度の緊張と張り詰めた戦いの連続の中で、彼の精神状態も極限に来ていたようです。
イスラエルの王妃イゼベルが、エリヤの命を狙っている話を伝え聞いたとき、エリヤの心は糸が切れたように折れてしまったのです。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」これがエリヤの本音でした。もう十分です。これ以上戦う力は自分の中には残っていません。自分の心が干上がってしまったかのように感じたに違いありません。
しかし、神はそのエリヤを忍耐を持って取り扱ってくださいました。決して説教がましいことを言って叱責したり、励ましたりすることをなさいませんでした。御使いを遣わして、「起きて、食べなさい」といって食物を与え続けてくださったのです。40日間かけて、エリヤはただ、「起きて、食べ、そして飲み、」続けたのでした。彼にはこの時が必要でした。起きて、食べて、飲む。この日常の基本的な生活をしながら、彼は、緊張した心がほどけて次第に力を得ていくようになりました。何という神様の取り扱いでしょうか。神はエリヤに寄り添われて「起きて、食べなさい」と言い続けてくださったのです。そのように、毎日の基本的な生活を通して、次第にエリヤの心が整っていきました。
次にエリヤは神の細い声を聞くことが必要でした。神の御声は、神に集中するときに聞こえてきます。ただ神を見上げて主を仰ぐときに「かすかな細い声」が聞こえて来るのです。人の慰めにまさる神の励まし。それが人を生かすのです。エリヤは神の御声により新たな力を得て立ち上がっていくようになったのです。
もし、同じようにあなたも弱さを覚えているなら、主の御前にでてこの細い神の声を聞きませんか。慌てないで、時間をかけてじっくりと神の御声に耳を傾けていきましょう。

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