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NO.121  2010.12.12

「だれの所に行くのか?」

 

「ユダヤ人の王としてお生れになった方はどこにおいでになりますか。
私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイの福音書2:2 )

 

「あなたの人生で急に目の前が真っ暗になるような苦難がやってきたら、その問題をどう解決しますか?」これは、ある韓国の調査団体が大学を出ている1000組の夫婦にアンケート調査をした時の質問の一つです。答えた人の何90%の人達が占いや姓名判断、運勢などのもとに行って問題を解決してもらうと答えたそうです。高学歴の人達であっても、手に負えない問題に対して、占いなどにその助けを求めてしまうのが現状のようです。しかも、残りの10%の人達のうち、わずか5%の人達はキリスト教やその他の宗教に助けを求めると答えたそうです。
この結果は、世の光地の塩であるはずのキリストの教会には人々はあまり助けを求めて来ないという現実を物語っています。また、このことは教会やキリスト者の側にも十分に浸透していない問題があることを示しているようです。もっと人々が助けを求めて教会にどんどんと来るようになってほしいと思います。
魅力ある教会、身近な教会、命に溢れる教会を目指していくことが私たちに求められているのだと思います。教会に行けば必ず何かの助けを得られる。人生が変えられる。神の祝福にあずかることが出来る。そのような具体的な恵みと祝福を発信する教会になりたいと心から願わされます。クリスマスはそのことを知らせる絶好の機会です。
聖書にはイエスの誕生をいち早く見出した東方の博士達のことがでてきます。彼らは星の運行から救い主の誕生を導き出し、星に導かれて、はるばる何千キロもの旅をして救い主を捜し求めてやってきました。
日本語訳聖書では博士達と表記されていますが、彼らは実は占星術師であり、日頃から星の運行を研究し、それに伴う様々な現象を予見していたのでした。神様は私たちの枠組みをはるかに超えて働かれるお方であって、真面目に真理を探究し求める者にはその真理を現わしてくださることがわかります。また、彼らが何千キロも旅をしてきたことの中に何としてでも救い主に会いたい、その方を礼拝したい、という決意と覚悟が現わされているようです。民族や宗教の枠を越えて彼らは純粋にそう思ってユダヤにまでやってきました。そうしてついに星に導かれて、生れたばかりの救い主イエスを見出すことが出来たのでした。
私たちはこの博士達のように、一心に救い主を求めているでしょうか。神を信じていると言いますが、その感動が今あるでしょうか。身近な安易な解決方法や、目前の快楽にだまされて、救い主イエスを見失っていることはないでしょうか。クリスマスという言葉で踊らされて、クリスマスの中心のイエスキリストを見失ってはいないでしょうか。忙しくなればなるほど、じっくりとイエスと向合うことを忘れてはならないのです。なぜならイエスの所に行くことが本当のクリスマスなのですから。

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