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NO.117  2010.11.14

「ぶれない生き方」

 

パウロはこう答えた。
「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、
きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、わたしのようになってくださることです。」
  (使徒の働き26:29)

 

調度今、APEC(アジア太平洋経済協力)が開催されています。21のアジア太平洋地域の国と地域の代表が横浜に集まり、経済協力や貿易、投資などの円滑化に向けた話し合いが開かれています。
尖閣諸島問題で中国との関係がぎくしゃくしている日本もこの機会を用いて、なんとか中国と関係修復しをしようと、中国首脳との会談の可能性を探っています。折しも時を同じくして、中国漁船の海上保安船への衝突ビデオが、海上保安官によってネットに流出する事態になり、情報の管理の問題や政府民主党の対応の仕方に批判が上がっています。流出をさせた本人に対しては、同情の声やその行為に対する称賛の声が多数寄せられていて、国民の多くの声を彼が代弁した形となっています。
その根底には政府に対する中国への弱腰外交が原因となっています。国益を第1に考え、国民の安全と権利を守るはずの政府が、強硬な姿勢を取る中国に対して態度が二転三転してぶれてしまっているからでしょう。外交の基本方針が不明確で、一貫した国のあり方、外交のあり方が見えてこないことに対する苛立ちが私たちの国民の間にあるからでしょう。
しかし、翻って私たちの信仰の姿勢はどうでしょうか。キリストを信じる者としての一貫性を保っているでしょうか。時にはこの世の物差しや尺度で生き、時には信仰的な判断で行動する。それでは一貫性を保つことは出来ません。なぜなら自分の中に、ダブルスタンダード(2つの基準)があるからです。私たちはキリストによって捉えられ、罪赦され、救われたのです。あくまで私たちの中心はイエスキリストであり、イエスが願われる神中心、御言葉中心の生き方を目指すのです。
人が立っておれるのは背骨が体の中心にしっかりと軸となっているからです。同様に私たちもぶれない生き方を確立するためにも、聖書に生きる一貫性を持ちたいと思います。これこそ力強い、強力な生き方です。もちろん少々の摩擦はあるでしょうが、その一貫性を人々が見るとき、それが逆に魅力となるのです。人の顔色をうかがいながら、相手に合わせすぎる生き方は疲れます。だからこそ神を信じて堂々と生きていくものになりたいと思います。
パウロは捕えられローマに護送される前、カイザリアにおいてユダヤの王アグリッパとローマ総督フェストの前に立ちました。彼はそこで堂々と弁明したのです。釈放されるための小細工をしたり、取り入ろうとする態度は一切取りませんでした。彼は彼らの前で、自分の信じている道を語り、勧め、キリストを語り続けたのです。
一本キリストという筋の入った生き方をしつつ、ひとびとへの愛と配慮を忘れない、そのようなキリスト者にさせていただきましょう。あなたの言動の中に人々はキリストの光を見出して、それを得たいと思えるような魅力あるクリスチャンへと成長させていただきましょう。

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