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NO.105  2010.08.22

「たとえそうでなくても」

 

わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。
・・・たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。
わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
(ダニエル3:17-18:口語訳)

 

「たといそうでなくても」(安利淑著)という本が35年前に出版され感動して読んだことがありました。
著者は朝鮮での日本の軍事政権によるキリスト教弾圧に対して抗議するために帝国議会の議場で告発文を投げ入れたために逮捕され、さらには帰国後朝鮮で神社参拝を拒否したことで逮捕されます。そうして5年間の壮絶な獄中生活を送ることになります。厳しい拷問に耐えながら、しかしその中でも証しされ、同獄者が救れたり、様々な神様の恵みを体験されていきます。出版当初、日本の教会の中でも大きな反響を巻き起こしました。
本のタイトルはダニエル書3章から取られたものでした。シャデラク、メシャク、アベデネゴというヘブルの3人の青年が補囚の地バビロンにて、ネブカデネザル王の金の像を拝むことを強要されます。しかし、それを拒み神のみを礼拝していたため3人は捕らえられ王の前に引き出されていきます。もし、金の像を拝まなければ燃える炉の中に投げ込むとネブカデネザル王に迫られた時、彼らははっきりと宣言するのでした。
この言葉に私たち信仰者の姿勢が明らかに示されています。「わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。」 この素晴らしい告白は彼らの神への力強い信仰の表明です。揺るぎない神への確信が表されています。しかし、更に素晴らしいことは「たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」という告白です。たとえ、燃える炉の中に投げ入れられたとしても、金の像は拝みません。という表明こそ無条件の神への従順の姿勢です。
私たちの信仰はしばしば条件付きではないでしょうか。神が自分の願い通りの答えを下さるならば神を信じる。神が私によくして下さるならば従う。それは幼い子どもの信仰です。神への信仰の表明は二つ事が問われることを覚えましょう。神は私たちを救い、祝福の道へと導いて下さるという信仰の告白としかし、自分の思い通りのことが起こらなくても私たちの神への信頼と神への従順はいささかも変わりません。という告白です。
自分の願いや思いに固執している間は苦しいものです。そうならない状況を受け入れることができません。しかし、それを神様に献げて委ねてしまうと、楽になります。神は最善以外は下さらない。たとえそれが自分の思いと違っていたとしてもそれが神の願いならそれを喜んで受け入れましょう。そのように一度自分の持っている物を手放して委ねてみると、神の導きが判ってくるようになるのです。聖書の信仰者たちや信仰の先輩者たちはそのように神の思いに寄り添い、一つになって生きたことにより天国を手にすることができたのです。「たといそうでなくても」私は神を信じ、神以外のものには従いません。相克泊する者とさせていただきましょう。

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