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NO.103  2010.08.08

「行方不明」

 

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、
その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、
『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
(ルカの福音書15:4~6)

 

 

先月111歳の男性が実は何十年も前に亡くなっていてその遺体が部屋で発見され騒動になりました。家族が同居していたにもかかわらず、そのことが通知されず、また家族が年金を受け取っていたことでも問題になりました。
更にこれに端を発して100歳以上の高齢者が果たして存命しているかどうか、またその所在が確認できるかどうか市町村でも調査が始まりました。実際調査をしてみると次々と行方不明となっていたり、連絡がとれなくなっている人が判明してきました。現時点では63人もの人が全国でわからなくなっているそうです。
 居るはずの人がいない。存命しているはずの人がわからなくなっている。戸籍上は生きているのに実際は亡くなっていたり、また行方がわからないというのです。年間10万人以上の人達が行方不明者として発表されていますから、ひょっとするとその中に入っているか、もうすでに亡くなっているかも知れません。
 翻って私たちはどうでしょうか。確かに住民票の場所に住んでいるかも知れませんし、戸籍にも生きていることが記載されているかも知れません。しかし、神様の目から見たらどうでしょうか。神を信じるまでは私たちはいわば霊的に行方不明の状態だったのです。神の目を離れ、自分中心の生き方をしていたのが私たちです。
 そんな私たちを神はアダムとエバの堕落以来、ずっと「あなたはどこにいるのか?」と探し続けてくださってきたのです。イエスも百匹の羊のたとえ話を通して、失われ行方不明になっている一匹の羊が実は私たち人の姿であることを教えられています。
イエスは私たちを捜し求めてこの地に来られました。ちょうど一匹の羊が見つかると大喜びで肩に担いで飼っていく羊飼のように、また、近所のひとたちに『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』といって、見つかった喜びを心から現わす羊飼のように、神は私たちが見つけられ、悔い改めて神を信じるものとなることを大喜びで喜んでくださるお方なのです。
果たして自分は霊的な行方不明者になっていないか自己点検してみましょう。その状態がどれほど危険でたいへんな状況になっているのかわからないで安閑として居るのかも知れません。また、見出されたならば、まだ神の目から行方不明となり、見出されず苦しんでいる人達に「神があなたを捜しておられますよ」とお伝えし、神の元に返るように証しする者となってまいりましょう。主は今も行方不明者を捜し続けておられるのです。

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