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NO.090  2010.05.09

「無条件の愛」

 

しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。 (マタイ15:27-28)

 

今日は母の日です。日頃のお母様の労苦に心より感謝をしたいと思います。実家から遠く離れている方は電話をかけて、お母様の声を聞き感謝の気持ちを伝えられたらいかがでしょうか。すでに天に召されたお母様には生前の愛と労苦に対して神様に感謝をささげようではありませんか。また、教会には子育てを終えられた教会のお母さんと呼べる姉妹達がおられます。その先輩の姉妹達に日ごろの感謝をささげようではありませんか。その存在は本当に尊いのです。A gentile dog
また、もしお母様の思い出が薄いと言われる方もおられるかも知れません。その方は、神様の深い愛と恵みが溢れるばかりに私たちに注がれていることを覚えていただきたいと思います。なぜなら、母の愛は神の愛に通じ、神の愛は母の愛のモデルなのですから。
 実際、母として子どもにどれほどの愛情を注いで下さったことでしょうか。子どもの時にはその愛の深さや配慮がわからないものです。でも親になって初めて親の苦労がわかるのです。どんな気持ちで接していたか、そのとき親としてどんな気持ちだったか。親の立場になって考えられる人は幸いです。
では神の愛にも通じる母親の愛とはどのような愛でしょうか。あるときツロフェニキア出身の外国人である一人の母親が娘の病気の癒しを求めてイエスの所にやってきます。イエスはこの母親の要求をなかなか聞こうとはされず、「子犬に子ども達のパンを投げてやるのはよろしくない」とまで言われます。
しかし、この母親は引き下がりませんでした。引き下がらないどころか、イエスの言葉を受け入れ、「子犬でもパンくずはいただけるでしょう」と、イエスの言葉に対して見事に切り返したのでした。このことにより娘は癒されたのです。
 そこには娘のために決してあきらめない母の愛情が示されています。その愛は外国人であるというハンディも、子犬と呼ばれても変ることはありませんでした。絶えず前向きに捉えて神の助けを求める。何というしたたかさ、力強い母の愛でしょうか。もし母親が簡単にあきらめていたら娘の癒しはありませんでした。
 また母親の愛は自分を捨てる愛でした。自分はどのように思われても、目的は娘が癒されることでしたから、そこから目をそらしませんでした。自分に死んで娘のために生きる母親の姿に心打たれます。この愛こそが神の愛であり、キリストの愛に他なりません。キリストは命を捨てて私たちのために十字架にかかって死なれました。それは私たちを罪から救い出すためでした。この神の無条件の愛こそが母の愛の原形なのです。もう一度愛とは何かをしっかりと心に刻む時といたしましょう。

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