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NO.087  2010.04.18

「何に執着しているか?」

 

というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。
そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。
もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。 
  (第Ⅰコリント9:16)

 

昨日、今年の1月12日に天に召された金沢の片山和子姉の納骨式を行いました。ご家族や近親の方々、それにご友人の方々が20数名集って下さいました。
和子姉妹との交わりを振り返りながら、和子姉に祈っていただいたこと。聖書をいただいたこと。励ましていただいたこと。教えていただいたこと。など様々な思い出が分かち合われて本当に感謝でした。そんな交わりから和子姉はキリスト者として信仰の証を精一杯されたのだと思わされました。
霊園に向かう前に片山兄の自宅に寄ったのですが、庭先に咲いているチューリップの花を指して「このチューリップの花は和子が死ぬ前に球根を植えたものなんですよ。きれいに咲いているでしょ。」と片山兄が教えて下さいました。何か和子姉の歩まれた人生そのものを見る思いがいたしました。
私たちもまた、蒔いたものを刈り取ることを覚えたいと思います。どんな種を手にして蒔こうとしているでしょうか。ある人は、人からされた辛い仕打ちをいつも心に抱いているかもしれません。そのことが邪魔をして人生に対して良いイメージを抱けないかもしれません。人の言葉もマイナスに取ってしまう場合もあるでしょう。そうすると結局、怒りや悲しみの種を蒔いていることになるのです。
また反対に、神様からいただいた救いの恵みに感謝して歩んでいる人もいます。神様が下さった人生を肯定的に受け止めて、周りの人々に祝福と恵みを分かち合っておられます。その人は祝福と恵みの種を蒔いているので、豊かな祝福の実を刈り取るようになるのです。
良き福音の種を手にするためには、苦い種をキリストの十字架の元に置くことが必要です。困難な思いから解放して下さるお方はキリスト以外におられません。握っている種をキリストの元に置いて、それらを取り除いていただきましょう。苦い思いから解放され、豊かな福音の種を手にいたしましょう。
また、豊かな人生の刈り取りをするためには、人生における優先順位を明確にすることが大切です。私たちは有限な時間を生きているのです。しなければならないことの順番を決めていないと、やりたいことの時間がもう残されていないことになるかもしれないからです。果たして自分は今、やるべき事をやっているかという問いを自分自身にしてみましょう。
パウロという人は自分のすべきことにとことんこだわって生きた人でした。それは「福音を伝える」ということでした。それはどうしてもしなければならないことであり、もししなければ呪われるとまで言っています。それは彼の使命に対する確信の強さの現れであり、執着の強さの表明でもあります。
私たちは何に固執しているでしょうか。目に見える財産や人の評価に心を奪われすぎてはいないでしょうか。なくてならないものは多くはないのです。いや一つだけです。とイエスは言われました。朽ちていくものに心とらわれず、神様が下さっている果たすべき人生の使命に集中して生きようではありませんか。
神の福音に生きること、このことに専念し、こだわり、執着して生きる者とさせていただきましょう。

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