閉じる

NO.079  2010.02.21

「関わることを恐れるな」

 

近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、
介抱してやった。(ルカの福音書10:34))

 

先日、NHKスペシャルで、無縁社会~“無縁死”3万2千人の 衝撃~」(1月31日放送)が放送され、その後大きな反響を呼んでいるそうです。人間関係が希薄で、人に判らないまま孤独の中で亡くなる人が毎年、3万2千人に上るというのです。
 考えてみれば、確かに私たちは人と関わることが少なくなりました。一日中コンピューターと向き合い、人と顔を合わせて話をすることが希になりました。また、核家族化が進み、子ども達もそれぞれ自分の部屋があり、家庭の中でも関係が希薄化する傾向にあります。そんな中で人と関係を作ることが苦手な人が増え、孤独な生活をしている人も多いのです。まさに私たちは無縁社会のただ中に生きていると言えるのではないでしょうか。
 しかし、これは神様が意図されている状態ではありません。私たちは関わりの中で生きるのです。社会性は互いに関わり合う中で養われ、他者を思いやる心が育つのです。天地創造の時に神様は人が一人でいるのはよくないと言われて、男に女を造られたのです。以来、人は交わりの中で、育まれていく存在になったのです。
 信仰を考えても、交わりという視点から見ればよく理解できます。信仰とは神様との交わりであり、神様との関係を築くことに他なりません。単なる理屈や知識では神様を知ったことにはならないのです。イエスは私たちと交わりを持ちたいと願われ、愛の関係を築きたいと思われて、天から下ってきて下さったのです。
 このイエス様の愛の関わりがなければ私たちは本当の愛が解らなかったし、愛し合うことがどのような事なのかも知ることがありませんでした。しかしイエス様はご自分の命を捨てて十字架に架かり、愛を示して下さったのです。イエス様の温もりや暖かさは交わりを通してもたらされるものなのです。
 愛の実体は交わりを通してもたらされることをもう一度認識いたしましょう。旅の途中、山賊に襲われ倒れていた旅人を解放したのは、立派な祭司でも、品行方正なレビ人でもありませんでした。ユダヤ人にとっては付き合いもない、見下しているようなサマリヤ人だったのです。
 祭司もレビ人も関係を持ちたくないと思って道の反対側を通りましたが、このサマリヤ人は近寄っていきました。傷の手当てをし、包帯を巻き、家畜に乗せ宿屋まで連れて行ったのです。このサマリヤ人も最初は躊躇したかも知れません。どうしようかと迷ったことも考えられます。しかし、近づいてかかわったのです。犠牲も払いました。時間もかかりました。予定も変更になりました。でも、彼はかかわることを優先したのです。私たちもかかわることを恐れないで、隣人にかかわっていく者となりましょう。その時にこそ愛が伝わるのです。関係が出来るのです。福音が伝わっていくのです。

 一人でいる気楽さから抜け出して、時間も労力もかかるかも知れませんが、交わりに生きる一歩を踏み出そうではありませんか。あなたという存在を通して神の愛が流れていくのを体験することでしょう。そのときキリストが伴っておられる事に気づくのです。
閉じる