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NO.059  2009.10.04

「だからよ」

 

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
(ローマ人への手紐9:16)

 

先日のビジョンツアーでは、参加している牧師先生達と楽しい交わりがもてましたが、特に沖縄の先生達の交わりは愉快でした。その会話の中で、「だからよ」と言う言葉が話題になりました。たとえば、礼拝時間にかなり遅れてきた方がいるとします。牧師先生が「遅れてこられましたが、何か理由があったのですか?」と聞かれると、沖縄では「だからよ」と応えるのだそうです。私たちだと「だから、どうしたの?」とだからに続く遅れた理由を聞きたくなります。しかし、沖縄ではその後の言葉はないのだそうです。ただ「だからよ」というのです。それは「先生、遅れた理由は察してよ」「それ以上、野暮なことは聞かないでよ」「いろいろあるんですよ」という意味で、「だからよ」と言うのだそうです。だから、「だからよ」といわれると、その後は何にも言わないし、聞かないことが暗黙の了解なのだそうです。
その後のツアーではこの「だからよ」が流行語のように使われました。「西田先生、よく食べますね。」と言われると「だからよ」と応えるのです。「先生いい気持ちで寝ていましたね。」「だからよ」。そう答えるとなんだか分ったような、分らないような感じですが、妙に笑顔で納得してしまいました。言い訳する必要がない、「だからよ」と言えばそれでその場が収まる。とても便利な言い言葉だと感じてしまいました。
以前沖縄でうまくいく企業とそうでない企業があることを聞いたことがあります。沖縄には沖縄のおおらかな文化があるのでそれに合わせると仕事もうまくいくそうですが、本土のやり方を持ち込んで、ルールをきっちりと定めて、本土式でやってもうまくいかないそうです。同様に沖縄のおおらかな文化は、こんな言葉にも表れているんだなと思わされました。
「だからよ」と言う言葉を私たちも少し使ってみませんか?そういうと、「そんなことで言い訳していたらルールがめちゃめちゃになってしまう」という言葉が聞こえてきそうです。一つ許してしまうと全部そうなってしまうのでは、と危惧する人もいるかも知れません。しかし、現代のようなぎすぎすした社会や人間関係であればあるほど、「だからよ」と言える場が必要なのではないかと思います。
私たちが信じている神様は憐れみ深い神様です。私たちと同じ目線に立って私たちを受け止めてくださるお方なのです。教会はお互いを監視する場ではありません。互いを愛し受け入れ合う交わりの関係です。それが家族です。「だからよ」といって、笑って受け入れてもらえるような関係が、どれほど安心と笑顔をもたらすことでしょうか。
お互い「だからよ」精神で、相手を受け入れ合おうではありませんか。もちろんこれが出来るには広い心と豊かな心が互いに求められることは言うまでもありません。

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