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NO.058  2009.09.27

「リスクを負う」

 

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご白分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ人への手紐2:6-7)

 

アメリカのビジョンツアーから帰って一週間経ちますが、多くのことが思い起こされています。アメリカ文化と日本の文化は違いますので、アメリカでの教会成長の方法や教会の在り方は目本のそれとは一概に比較はできません。しかし、そこに原則を見出すことはできます。
成長している教会の特徴のひとつはリスク(危険)を負っているということです。何もしないで成長している教会はありません。ただボーっと待っていて人が教会に押し掛けているという教会はありません。どの教会も鋤或の必要を敏感に感じ取って、教会として何ができるかそれを考え祈って実践しているのです。
私たちの信仰が成長するためには、成長に向かって一歩踏み出さなければなりません。車の免許を取った人は経験があるでしょう。教習所で運転を習い、路上運転もし、試験をパスして免許証をもらいます、しかし、それだけで運転 が向上するわけではありません。実際に運転をして見なければなりません。そのまま放置しておくといわゆるペーパードライバーとなってしまって、運転ができなくなってしまいまず。知識として車の構造をどれだけ知っていても、運転ができることとは別なのです。
 なんにでも始まりがあります。誰も最初からうまくできる人はいません。まずやってみること。それが大切です。信仰も同じです。聖書の知識を蓄えることはもちろん大切です。しかし、信仰は聖書に生きることであり、知識だけでは神のカを受けることにはなりません。
  神が最も働かれる時とは、それは私たちがリスク(危険)を侵して、神のためにチャレンジする時にほかなりません。人々にイエス様のことを伝えましょう、と言われても最初の一歩は勇気が要ります。
心臓がドキドキするかもしれません。言葉に詰まりはしないかと不安になるかもしれません。でも思い切って口を開いて証し始める時、神檬が働いてくださり、語ることの喜びを経験することができるのです。
 私たちの信仰生活に新しい風が吹いてほしいと思うなら、何か新しいことにチャレンジしませんか。今までやってなかった事に思い切って挑戦してみましょう。じっと座って、ああなればいいな。こうなればいいな。と思うだけではことは動きません。危険を冒して、やってみる。そこに神の業が起こるのです。
 イエスは神の御座に坐し続けることをされませんでした。私たちを救うために、天の御座を去ってこの地に人として来てくださったのです。大きなリスクを負われました。その究極は十字架です。イエスはご自分の命を捧げてくださったのです。その命によって私たちが救われたのです。最もリスク(危険)を負われたお方こそ、このキリストです。
 私たちもイエスに倣うものになりたいと思います。大きな祝編の海に向かって一歩踏み出していこうではありませんか。その時不可能が可能になるのです。

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