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NO.055  2009.09.06

「闇に光を投じるお方」

 

たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、
あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。(詩篇139:11-12)

 

先日、全国で三件目の裁判員裁判となった青森の強盗強姦事件の判決公判が青森地裁で開かれました。被告に対しては検察側の求刑通り懲役15年の判決が言い渡さました。
民間人がかかわる裁判員裁判に対しては今も賛否両論があります。確かに不完全な人間が人を裁けないというのもあります。また、実際量刑を決めたり、罪に定める責任を負うことへのためらいもあります。しかし、専門家である裁判官も不完全な人間に変わりはありません。その不完全さを承知しつつ、この市民社会を皆が負っているという意味で、民間人が裁判員として参加することも意義あることではないかと思います。
裁判員制度が始まって、犯罪のもたらす現実の痛みと傷の深さ、さらには人を裁くことへの難しさがより身近になったように思います。いままで犯罪事件の報道はなされます。が、しかしそれ以上の内容は知ることはあまりありませんでした。犯人が起訴され裁判になり法廷が開かれ結審する流れは重大事件以外私たちはほとんど知りません。その事件は当事者だけがかかわっていることであって、その事件の背後にある犯罪者の姿や被害者の苦しみは知ることはありませんでした。
しかし、今回、民間人が裁判員になることにより、事件の全容が示され、犯罪者が犯罪に至った経緯、更には犯罪に走った人の欲望や引きずっている心の闇、また、被害者の受けた傷や痛み。それらが私たちの目の前にリアルに展開されて行くようになったのです。
更には人はなぜ犯罪を犯してしまうのかという命題に私たちを向けさせるようになったのではないでしょうか。人は誰しも心に様々な闇を持っています。時にその闇の力が私たちを飲み込み、動かしてしまう。その闇が、私たちの心に住んでいることに気づかされるのです。
今回の青森の事件で裁判員の一人に選出された牧師の渋谷友光さん(45歳)が新聞社のインタビューに「被害者の思いが痛いくらいに伝わった」と述べられ「被害者が、つらいだろうが私たちの前で証言してくれたことの切実さ、思いが痛いくらいに伝わった」と涙を浮かべて語られました。おそらく牧師として祈りなくしてこの裁判員は引き受けられなかったでしょう。その会見で彼の加害者の更生を願う思い、かつ被害者の感情をくみ取り、その気持ちをおもんばかっている思いが伝わってきました。
私たちの心の中にある闇、それはキリスト者になったらなくなるというものではありません。むしろ、しばしばその闇を引きずっていることに愕然としたり、絶望したりするのです。時にはもう自分を見ないでほしいと言いたくなることもあります。しかし、聖書は「あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。」と神様の姿を語ってくれています。実に神は私たちの闇に入り込んでくださり、その闇に光を投じて真昼としてくださるのです。
神の前に自分の闇をごまかさないで、辛くても向き合っていくとき、闇の深さがより浮き彫りにされ、更にその先に光があることに気づかされるのです。

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