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NO.051  2009.08.09

「美しい生き方」

 

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
(Ⅰペテロ2:23)

 

 

よく、「自分ほど割の合わない生き方をしているものはない」という人がいます。自分だけ貧乏くじを引いているように思えてやりきれないのです。しかし、一番割の合わない生き方をした人がいます。イエスキリストです。ののしられ、唾をかけられ、むち打たれ、犯罪人として十字架にかけられました。しかし、その一番割の合わない生き方を通して、キリストは私たちを救いへと導いてくださいました。いわばイエスの割の合わない生き方があればこそ私たちは救われたのです。割が合わず、辛く苦しいときこそ、このキリストを思うことです。

今もロングランを続けている「泥かぶら」という演劇があります。一人の醜い顔の女の子がいました。彼女には両親がおらず、あまりにも身なりが汚く、顔も泥で汚れていました。村の子供たちからは
「泥かぶら」とはやされ、唾を吐きかけられたり、石を投げられたりしていじられていました。
しかしこの「泥かぶら」の女の子も負けず嫌いで気が強く、子供達に仕返しをするものですから、益々、顔は醜くなり、ひとりぼっちになってしまっていました。
そんなある日、旅のおじいさんが通りかかり、「そんなに口惜しいのなら、おじいさんの言う
ことを、来る日も来る日も守ってごらん。きっと村一番の美人になるよ。
それは、いつもにっこり笑うこと。人の身になって思うこと。自分の顔を恥じないこと。」
と言い残して村を去っていきました。
悪ガキに仕返しの石を投げようとしたとき、「いつもにっこり笑うこと。」とつぶやき、思い返して石を捨てます。自分に辛く当たった夫婦だったのに、病気に必要な薬草が険しい崖の上にしかないと知って、「人の身になって思うこと」と呟いて、代わりに取ってきてあげます。他の娘たちと自分を比べて劣等感のかたまりだったのが、「自分の顔を恥じないこと」と呟いて、小高い丘の上で晴れ晴れと「泥かぶらは,泥かぶら」と笑顔で叫びます。自分と闘いながら、いつしか彼女自身が変わっていくのでした。何を言われてもニコニコし、喜んでお使いをし、子守をする泥かぶらは、いつしか村の人気者となり、村の人々に愛されるよう女の子になっていくのでした。
ある時、村に人買いがやってきて、借金のかたに村の女の子を連れて行こうとします。泣いて人買いにわびる親の姿を見た泥かぶらは「おじさん、私には親も兄弟もいないんだから、私を代わりに連れてって」そういって身代わりに自分を差し出します。道すがら泥かぶらは村での楽しかった生活を話したり、人買いの肩をもんでやったり、食事を調えたりするのでした。ある朝、目を覚ますと人買いの姿はなく、「ありがとう。ほとけのように美しい子よ」書き置きの手紙が残されていました。(「幸せのありか」渡辺和子著 PHP参照)
泥かぶらは創作劇ですが、しかし生きる大きな姿勢を教えてくれています。どんな時でも、いつもにっこりと笑うこと。人のみになって思うこと。自分の顔、すなわち自分の存在を恥じないこと。これらのことをキリストにあって実践し始めようではありませんか。キリストにある美しさがそこににじみ出てくるはずです。

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